6月25日 Michael Jackson 死去。
そのことを理解するまでかなり時間がかかりました。
最近僕と親しくなった人はご存じないかもしれませんが、僕は大の洋楽ファン。(そもそも洋楽、と言う区分け自体好きではないですが、海外の、特に70’ 80’代に好きな曲が多いのです)
特にBLACK CONTEMPORARY(この言葉古いな)、R&B系は祭囃子と並んで血肉になっています。MTVは欠かせない。中でもMichaelJacksonは、SteelyDanやPrince,Earth Wind &Fireと並んで僕の最も敬愛するアーティストでした。大学時代は友達とマイケル話だけで朝まで盛り上がることができました。パン!茶!宿直!(違う)
92年、95年と来日するたびに東京ドームまで見に行きました。
アルバムももちろん全て持っています。iPodにも全て入ってます。
何曲かはカードを見なくても歌詞が書けるくらい聞き込んでます。
スリラーをはじめ、PVも持ってます。(VHSだからもう見られないですが・・・)
ディズニーランドで一番好きなアトラクションは未だにキャプテンEOです。
はじめにマイケルのことを知ったのは87年のBad Tourのときです。
当時僕はブラスバンド部に在籍して、マーチングをはじめ音楽とステージングに興味を持ち出していたときでした。何気なくつけたテレビにマイケルの日本公演が映っていて、その圧倒的なパフォーマンスに、「あんた一時間ほど口がポカーンと開いていたよ。(母親談)」といわれるほど釘付けになりました。本当に、一瞬で虜になったのです。
その頃から20年、ずっとマイケルは生きてたし、新しい曲を生み出してくれていたし、いつもニュースになっていたし(良くも悪くも)、きっとずっと存在しているものだと思ってました。
マイルスデイビスが亡くなった時も、フレディマーキュリーが亡くなった時も、いろいろと衝撃を受けましたが、今回のマイケルのインパクトは比較になりません。友人と話題に上った数、聞き込んだ量、ライブで衝撃を受けた量などが比類なく僕の中に入っているのです。
マイケルの歌について語りたい事がたくさんありますが、まずは何より、好きな曲を伝えます。
有名なThrillerもBlack and WhiteもBeat itも好きだけど、
Rock withYou,Smooth Criminal,Billy Jeanも好きだけど、
それ以上に、
マイケルの中で僕がフェイバリットとして称える3つの曲があります。
マイケルの真骨頂はゴスペルバラードにあると信じています。
僕が人として踏み外さないための、規範にもなってくれている曲。
LoveSongでも応援歌でも感情歌でもなく、ただ人として、
●Keep the Faith
●Human Nature
●最高峰はこの曲。題名は曲の後で。
3分18秒目からの階段を駆け上がるようなクライマックスに痺れます。
人としてのあり方、博愛、許す事、慈しみを感じる歌手でした。少なくとも僕には、彼にどんなゴシップが付きまとおうとも、上記のような歌が歌える人であればそれでもう信じるに足る人物でした。真実がどうかは関係なく、僕が感じたことが僕にとっての全てです。
僕は大学時代合唱団に属していました。
いくら「酒と女性に釣られて大学で合唱団に入ったんだ。本当は合唱なんて嫌いなんだ」と言い張っていても、心のどこかでは合唱の力を感じていたのだと思います。
僕が最終的に合唱団に入団した決め手は、上記のような曲から感じていた歌の魅力、だったんだと思います。間違いなく。
泣けてきた。合掌。
月: 2009年6月
長電話
僕の若いころは(今もです)友人とのコミュニケーションは主に電話。あ、対面を除いてね。
携帯もなければメールもない10代後半を過ごした世代なので、一人暮らしを始めたころはいろんな人と長電話をしながら夜を明かしました。
90年代後半、メール&携帯がコミュニケーションのメインストリームとなり、いつでもどこでも連絡が取れて、且つタイムロス含めて短文を適当な時間に返信するというコミュニケーションが主流になってきた今、電話を用いて感情のやり取りや駄会話を延々と行う、と云うことが少なくなってきたなぁ、と感じています。
いつの間にか、友人との長電話、と言う文化はもう廃れてしまったのでしょうか。
ただ僕に友達が少ないだけです。
ここ10年、長電話をするなんてことが無くなってしまったなぁ。意味も無く電話をして、ただ無駄話をつなげるだけの1~2時間(超)を行うコミュニケーションをとっていませんでした。
延々と5時間ぐらいSkypeをやり続けることは結構ありますけどね。(ね、K●tyさん。)
いや、こんな話をするのはですね、最近なぜか友人との電話コミュニケーションがちょっと増えてきて、その中には「深夜の長電話」という前世紀の遺産?のようなやり取りをする方が何名か居てくれたのですよ。
京都から電話をくれる某君、真夜中4時に電話して朝5時半過ぎまで長電話する某さんなど、久々に長電話をする機会に恵まれ、そのコミュニケーションのあり方にまた感じ取ることがいろいろとありました。
若いころは「長電話などオトコのすることじゃない。オトコは面と向かって伝えて何ぼ!」と思いながら日々長電話してましたが、年取ってくると普通に長電話してしまいますね。プライドも意地もへったくれもありません。
その昔、坂本龍一の「長電話」と言う本がありました。
ただつながっている、というお互いの確認と安心感に、断片的な言葉の情報が確認信号代わりに飛び交うというゆるいメディアとしての長電話。これは普通の電話とも違い、ましてやメールのやりとりとも違う別種のコミュニケーションなのだと云う事を、エッセイ仕立てで書いた本じゃなかったかと覚えています。こういう本、好きなんですよね。
相手の時間を奪ってしまう&自分の時間を使ってしまう、と言う迷惑とデメリットを重々承知しながらも、そこでつながっている安心感、と、ゆるい会話。顔も見えないし触れることも出来ないから、言葉が途切れるとそこでつながりも切れてしまう、と言う脅迫的且つ危ういツナガリ。ちゃんぐ亭のコンセプトはこのときからあったんですね。
人が居ないと生きていけない僕にとって、「長電話と言うメディア」はとても大事なものだったんだと再確認しています。いつでもみなさん掛けてきて下さいませ。もちろんこちらからも掛けなおしますよ。
Webサービスをねちっこく紹介
最近僕の初代師匠に当たるKama氏が何を改心したのか毎日HibiLogを更新しているので、それに合わせて僕も毎日更新してみるのである。何が一日一ネタペースだ。以前のように三ネタ出して果てないくらい強い男になりなさい。このもじゃもじゃ野郎。
そんな僕は一日一ネタですが一つ一つ濃くぶっとくいきます。
先日紹介したWebサービスについて、気になるものをちょっと紹介。
【Tumblr】
Links to Tumblr
タンブラー、と読みます。
ちょっと前、仕事仲間のUさんから紹介されたとき、その時点では僕の頭が悪くさっぱり解らないサービスでした。いわば「自分で書けないブログ」。なんなんだそれ、その自己存在否定は。テナ感じでした。でも今はなかなか面白いツールとして使わせてもらってます。
いうなれば付箋。ソーシャルブックマークとブログの相の子。他のサイトの引用を集めてブログ化するというサービスですね。ボタン一つで引用できるというお手軽さが魅力です。その上でお互いに興味のある引用で集まったタンブラーを読み込み合って、新しく知の集合を作ろうというものです。
うーむ、なるほど。自分で何にも生み出さないブログ、といえばいいのか。悪いイメージの言い回しだが、これはこれで面白い使い方が出来ます。そもそも知はその他の知の集合でしかないわけで、僕のように駄文をだらだら書くよりはよりシンプルで価値のあるものを生み出せるはずなんですよね。例えば●●な趣味に特化した写真サイトとか。でも自分で作ってないから逮捕されない、とか。●●を●●するような●●のサイトを●●して集めておくとか。僕はもうすぐあの世か刑務所に行くことになりそうですね。
僕はいつも「自分で書いて書いて書きまくるぐへへへへ」というスタンスでブログと付き合ってきたので、こういうサービスの取り掛かり方が解りませんでしたが、今は結構活用してます。毎日自分のダッシュボード※見てみてはニヤニヤしてます。
※ダッシュボードとは、Tumblr内で他人のTumblrを読み込んでおく自分だけのTumblrブックマークのようなものです。趣味の合う人のものを複数読み込んでおくと、毎日ものすごい勢いで自分の趣味に会う引用が流れてきます。そしてここから更にフォロー(再引用)という流れで情報整理されていきます。これがTumblrのすごいところ。
にしても、知り合いの写真が掲載されてたり、知り合いの言葉が引用されてたり、僕の参加していたイベントが掲載されていたりと、結構世間は狭いのだな、と言うことも改めて実感します。全てはお釈迦様の手のひらの上です。Webの世界はきっと埼玉県くらいの大きさです。
こちらが、僕の日々集めている引用タンブラ集。
でもやっぱり、他者の言葉を切り取って持ってくるだけでなく、どうしてもってきたのか、どこが好きなのかをちゃんと書きながら紹介したい。まとめておきたい。付箋にネームをつけるように。でないとただ付箋貼ってるだけの本になりそうだ。
結局僕は自分の言葉が一番好きなのだな。
【Twitter】
先日こき下ろしたばかりのツイッターですが、どうにも知り合いがあちこちで使っているようで、逐一気になっていました。使わない、というポリシーは僕の中で採決できるのですが、使えない、という状態になるのは悔しいので、意地になって使ってみてます。子どもです。はい。
一言日記なるものがかけない性質なので、大体露出恥さらし言葉集になることだと思います。僕の中二的思考を存分に堪能ください。本名で出てきます。恥ずかしいから見ないでください。でもみてください。うん、いや、だめ、いいよ、ええ、やっぱりだめ。
こういうくだらないことでサーバの要領を圧迫する奴がいるからタンブラーみたいなサービスが生まれるのですね。世の中は整合性が取れてます。
素敵な先輩
とランチしてきました。@表参道。ヒルズ。高級。オサレ。
オシャレな街でオシャレな先輩とオシャレなランチとはこれまた僕に全く似つかわしくないコンボです。
今日は珍しく全く仕事関係が絡まない関係の、大学の先輩との10年ぶりの再会でした。
いやー、如何に日々仕事に毒されているかよく解ります。仕事つながりの付き合いも好きなんだけど、それが全く無いツナガリが新しく出来る(再会する)ってのは、この年になってみるとすごく貴重なものなんだな、と感じます。
大学時代の憧れの先輩は10年ぶりにお会いしても素敵でした。
凛々しく可愛く。淑やかな愛嬌。こんな素敵な女性とランチをご一緒したのはいつ以来でしょう。
最近の話から大学時代の話、これまでの話などいろいろと語りつくせぬ時間でした。お昼休みの時間を割いてきていただいてたので、あまり長く話しできませんでしたが、この後また機会を作りたいなぁ。
こういう人との出会いがあるからまだまだ男として生きていきたくなるのだ。最近僕がおじいちゃんづいて居たのは素敵な女性との出会いが足りないからのだ。というと何かまわりに失礼な気がするので言わないことにします。
あと、仕事が絡まない関係で、僕が後輩、と言うポジショニングで女性とお話しすること自体がここ数年無い事だったんですね。なんというか、関係性の中で出てくる「意地」や「甘え」「プライド」「見栄」みたいなものが、いつも僕が職場で出しているもの、友人関係で出しているもの、家庭で出しているものとまた違った彩りを持っていました。自分自身が10年前に戻ったような。でも経験だけつんできたような。先輩との年齢の差も縮まった気がして、なんかちょっと嬉しかったです。
家に帰ると、かみさんからも「今日の浮気はどうだった?」と聞かれる始末。「いやー、すごい楽しかったよ。」と答える僕。なぜか今日は夕食の用意がありませんでした。普通のランチなのに。
Webのサービス
Webについて楽しみながら溺れまくる仕事を続けています。でも、なかなか自分でサービスを追いかけ切れてないと感じてます。思いつく限り使い倒してみようとするのですが、いかんせんどれで何をどう活用しているのかわからなくなって来てます。まあ、その線を越えて使いやすいものだけを選別するという手法で選んでいるのですが、それでもワケが解らなくなってます。
と言うわけで、最近自分が使っているWebサービスをたな卸し。特に情報収集系と業務系とコミュニケーション系。
- iGoogle & ガジェット
- EverNote
- Googleドキュメント
- Delicious
- Googleリーダー
- Amazon
- Tumblr
- ニコニコ動画&Youtube
- Googleカレンダー
- Remember the Milk
- Gmail
- Mixi
- 大学サークルのSNS
- NexusSNS
- Davics SNS
- keireki.jp
- Just hear it
-
【文字系】
- エキサイト翻訳
- Wikipedia
- 類語.jp
- Wictionary
一つ一つを言及していきたいところですが、疲れ果てそうなのでとりあえず列挙まで。これから一つづつ語ります。使えそうだ、と思ってるやつらだけでも結構あるもんだな。一日一回以上全てに目を通してる自分が、年間でどれだけネットしているのか、怖くなってきます。
桜桃忌
今日は6月19日。
太宰治の誕生日で且つ遺体発見の日。いわゆる「桜桃忌」です。
桜桃忌には太宰好きが、墓のある三鷹の禅林寺を参る、という習わしがあります。
いけすかない文学青年だった僕は「そんなミーハーなイベント事行って何になる。書物を読んでこそ何ぼ。供養など関係なかろう」」なんて気持ちもあって背中を向けていました。でも、さすがにこの年になってくると、昔お世話になった作家さんのお墓を参るのもいいものではないか、と思い始め、たまたま今年「太宰生誕100年」などでマスコミでも認知をかけてくれたので、暇に任せて三鷹まで行って参りました。
きたる善林寺。駅から結構遠い。足が疲れた。
僕にとっての太宰治は、相原コージの「コージ苑」と言う漫画の登場人物がスタートでした。あの愛嬌のあるコミカライズされた姿がインプリンティングされていて、本を読んだことも無く太宰のキャラクターだけを偏ってみてました。
でもまあ、若いころに数冊読んでみると、やはり文章が巧い。作家のキャラクターが立ち過ぎていて見失われそうになりますが、文章の技巧で言えば大変なものだと改めて大学時代に恐れ入って読み込んだ覚えがあります。
なんというか、日本の私小説家のキャラクターを作り上げたという意味では、本当にヒーローです。功罪あるとは思いますが。年取ってみて、改めて好きな作家と名を言えるようになりました。
あまりお墓の写真を撮るのはいい趣味ではないことは理解しているのですが・・・。
小畑健が表紙を書いた「人間失格」の影響か、はたまた元からの人気なのか、結構たくさんの人が弔問に訪れてました。お墓の手前で行列に並ぶほど。とはいえ3分程度だけど。もっと閑散としてるイメージだったのに。人気あるんじゃん。この人。
花に紛れて、タバコの吸殻が丁寧に並べられていたり、ワンカップ大関が綺麗に置かれていたり、なかなか他では見られない粋な品が墓の前に並んでました。
そして何より、お墓に彫られた「太宰之墓」の文字に埋め込まれたサクランボの数々。(写真参照)
ものすごい淫靡で卑猥に感じてしまったのは僕だけでしょうか。誰だこんなことした人。それとも毎年の恒例行事なの?なぜかドキドキしちゃったよ。
そんなこんなで初めての桜桃忌でした。高校時代に知ってから20年を超えての参列です。
そのほか有名な文学忌では芥川の河童忌があるけど、参列者が大挙するイベントにはなってないよな。そもそもお墓がどこにあるのか知らないし。その意味でも太宰だけは特別なキャラクターなんだよなぁ。
基本的に文学には疎いけど、お世話になった人に参ることそのものはいいことだと思います。年を取って少し素直になりました。はい。
忙しいという奴は
まだまだ修行が足らんのじゃ。
でも忙しいです。一台で料理系動画編集をしつつもう一台で学習系サイト構築を行い且つ婚礼系映像編集を行いおまけに企画書とアンケート類を作成しながら文字校。明日までに全部提出メド。落ちるまで3時間。死ぬる。
スーツ
僕はコレでも社会人生活を10年以上続けています。
我ながら信じられませんが。
カテゴリーで言えば、接客に関するお仕事をしております。
なのに、なぜ、出勤日に
「あれ、なんで今日スーツなんですか?」
と言われなければならないのでしょうか。
そんなにスーツ着てないかな。以前はほぼ毎日スーツだったと思うんだけど。
いや、冗談抜きで、最近おなか周りのサイズがエルエルになったことに伴い、今まで購入した全ての服が一切着れなくなってしまいました。おかげで最近新調したスーツしか着ていくものがない。ワイシャツは5着ほど纏め買いして、洗濯して着まわし。はっぴ着て会社いけば良いのか。
気持ち的には、「すぐやせる」つもりで居るので、あまりこのサイズで服を買いたくないんだよな。とか言ってるとこのままでずっと行きそうな気がする。うーむ、悩みどころ。
うーむ。
うーむ。
うーむ。
運動することにします。
PS-逆流性食道炎。いまだに辛いよう。何が辛いって、食後に自分が胃酸の香りを発してないかが気になってしまう。胃酸を止める弁が弱ってるのがキツイ。胃もたれとかはないんだけど、周りに迷惑をかけてないか心配。まじめに薬飲みます。はい。
詰めが甘い
山本は基本的に様々なコンプレックスの塊であり日々を卑屈かつ自虐的に過ごしているどうしようもない輩なのですが、そのコンプレックスの一つに「詰めが甘い」ことが挙げられます。
いやー、大雑把なんですよ。本当に。特に、8割がたカタチが見えたら、「よしOK」とすぐに完了サインを出してしまうせっかちな性格です。きっちりと丁寧に作りこむことができません。だれだ「神は細部に宿」らせた奴。もっと大雑把に宿って欲しい。宿れ。
今までそれでも制作の現場で何とか糊口をしのいできましたが、それでも全然基本的なスタンスは変わってきませんでした。よくもまあ生きてこれたものです。「形が見えれば、よし」「スピードが命」「量産するシステムの中で改善を求める」という性格。一つ一つの丁寧さに欠けます。いや、甘えてるんじゃないの。本当にどうすればいいのか困ってるんですよ。30年ほど。
小学生の頃からそうでした。図画工作でも掃除でも、全てにおいて先生から「詰めが甘い」と言うことをツネヅネ言われ続けてきました。80点取れれば次の試験に取り掛かる。8割出来ればすぐ提出。ある程度整理されれば即終了。というかなんで皆がそこまで細かい部分に手をつけられるのかが理解できない。そんな丁寧にモノゴトを動かせるその細やかな神経がわからない。
そんな少年でしたので、一人暮らしを始めてからは隣にだれか介護する女性が居てくれないと生きていけない様になりました。付き合ったらすぐに同棲または結婚。どれだけ甘えてるんだ自分。ほんとごめんなさい。そんな女性たちのおかげで何とかここまで生きてこれたも同然です。掃除も出来ないし洗濯も出来ないし、ましてや事務的な作業は壊滅です。かみさんに先立たれたら何も出来なくなる男筆頭です。
この時点で既に自助努力と言う言葉がまるで見えません。
そんな状況にもそろそろ終止符を打ちたい。30年ダメだったからといって、これからもダメとは限らない。と言うわけで、僕の変態的且つ壊滅的な性格を社会に適応させるために通年通い続けている心理カウンセラーにこの件を相談。どのようにこの性格を直せばよいのか聞きました。
「うーん、山本さんの場合、そもそも、詰めが甘い。と言うより、詰めと言う概念が頭にありませんね。」
ここまではっきりとは申されませんでしたが、要約するとそういうことでした。
なるほど、詰められない理由は、「なんとか詰めなければならない」と言うことの前に、「詰める」と言うことを認識することから始めなければならないようです。そしてその根底にはいわゆる「注意力」が絡んでいるそうです。
私のことをご存知の方はご存知だと思いますが、僕は症例としてサンプルの俎上にあがるほど注意欠陥能力に長けた逸材です。ただのもの忘れとはワケが違います。死んでいいですか。
というか、カウンセラーの方からも「その他の部分を伸ばしていったほうがよろしいと思います」「あまり気にされなくても、社会生活は営めますから。」と言われる始末。ようするに治らない・治し難いということらしい。本当に問題ないのか。既に問題山積みで生きてる気がするぞ。
そんな僕が社会人として人並みに生活するためには、注意力と丁寧さを幼稚園レベルから理解しなおさなければなりません。
かみさん交え、まずおこなっていることが、「何かしているときはちゃんと手元を見る」と言う訓練。逆ブラインドタッチの練習です。ええ、僕、いつも全く違うところ見て作業しているらしいです。空を見ながらご飯食べてるらしいです。かみさんはその状況をいつも「宇宙と交信している」と言います。そして「文字を綺麗に書く訓練」「モノを置いた場所を忘れない訓練」「自分で決めたルールを3分後に勝手に変えない訓練」などなど。幼稚園レベルからです。気がつけば夫婦ではなく親子になっているようです。教育されてます。
幼稚園児でなければ、僕のこの姿はまさにおじいちゃんです。かみさんからも「ボケてても良いけど、徘徊と下の世話だけはまだにしておいてね。」と言われてます。僕はまだ三十代です。
でも、全然諦めてませんよ。ちゃんと真人間になるつもりです。変態の部分は残したままに。本当に今、僕はリハビリ中です。この1年でちゃんとした真人間になるつもりです。大事なことなので二回言いました。
今のうちにやっておかなければならない事
なんてありゃしない。その日暮しで楽しいことができればいいのだというパラサイトキリギリスな僕ですこんにちは。でも、今だからこそやっておかないといけない事象に追いかけられる切迫感もまた感じます。
今読んでおきたい本、会いたい皆様、見ておきたい作品、鍛えておきたいモノ(特に腹回り)、感じたいコト、みんな山積みでそれこそ仕事している暇がないと感じています。ダメ社会人じゃないか。早くニートになりたい。誰かオレを養え。
それにしても最近読むのは実用書やビジネス書ばかり。こういう書癖の30代にはなりたくない。なりたくなかった。もっと物語というか妄想の世界に引篭もっていたいぞ。本音では。
それでもまあ、果たして今やっていることが将来に繋がっているのか。それを考えながら、楽しく生きていると感じています。まあ、なんて大人になったんでしょう。自分がやりたいこと、進みたいことに今の仕事は活きているのか?その目先をずらさないように、日々を注意深く生きてます。
夜、自宅に帰ってからはモノヅクリをしながらいろいろと学びの時間。気張ってやることではないけれど、最近の「仕事が忙しくて」を言い訳にしがちな環境で疎かになっていたことを、再度見直しにかかっています。
とりあえずまずは目の前の山積みの本を熟読。その後で東方を熟プレイ。楽しく熱く。キリがない毎日です。