42歳までに知ることになる、22歳の自分に教えてあげたい12のこと・10~12

 ずっと前にやり始めて、終わらせてなかった。コレです。
42歳までに知ることになる、22歳の自分に教えてあげたい12のこと・1
42歳までに知ることになる、22歳の自分に教えてあげたい12のこと・2
 残り3問ほったらかしのまま、1年近く経っちゃいました。ごめんなさい。
10. 友人とのつながり
 それは今でも大事にしてると思う。つか、大事にしすぎ。むしろ依存。
 依存と大事にすることはまるで違う。それに気づくのはだいぶ経ってからなんだよな。
 曰く「金の匂いがしない」「金を信頼して任せる気がしない」といわれる僕ですが、それはそれとして、損得や見得と関係ない、信頼の置ける関係性、それだけを基調に生きてきたといっても過言ではない。
 
 もちろん僕だって人間だし、更に言うと駄目人間の部類にずぶずぶに浸ってしまう側の人間だから、繋がってもらえてる相手側からしたら迷惑な話かもしれないけど。また大事にしてると思うのは自分の自己満足かもしれないけど。約束守ってるとはあんま思えないし。義理果たしてるとも思えないし。どう見ても大事にしてるとは言いがたいかな。駄目じゃん。わはは。まあ、良いか。
 でも、人と接する中で、大事にしておかないといけない意識、は持っている自覚はある。
 それは、思いがけないほど、人は傷つくし、復活に時間が掛かるし、プライドがある、ということ。
 22歳の自分に言いたいコト。君のプライドやバランスとは他人は違うから、「自分だったらどうするだろう」でモノ考えちゃだめ。全く当てにならないから。君の考え方、良くも悪くも人と違うから。人はもっとお金を大事にするし、身の回りのことに丁寧だし、適当じゃないから。君の100万倍丁寧だから。
 あとその寂しがりの癖。他人はもっと自立してるから。自分が寂しいから他人も寂しいだろうで判断すると、距離感誤るぞ。
11. 給料が高いだけの理由で仕事を引き受けてはいけない
 そもそも給料の高い仕事を引き受けたことが(以下略)。
 給与、お金、というものに対して、それは「大きくなってから結果として自分に帰ってくるだろう」という意識を持っていた。持ったままはや30代後半。いい加減、返ってこいよ。そもそも大きくなってから、なんて自分が成長する前提で考えてることがおこがましい。
 そして、その考え方が、間違ったことをしていたとは思わない。でも、もう少し早くリターンを得るコトを意識しても良かったんじゃないかな、と思う。得たリターンを更に自己成長に使うサイクルをまわしていれば、少しは変わった成長を遂げられたのかもしれない。その意味で、22歳の自分には、もっとお金にがつがつしてもらいたい。
 全く何も出来ない自分として、今と昔、代わらない武器といえば唯一つしかない。回復力、それだけだ。22歳の自分はその武器に早く気がつけ。フットワークが軽いなんてニンマリしてる場合じゃない。もっと軽く、もっと傷つけ。おまえは傷ついてもすぐ復活できるのだから。びびってんじゃない。そして馬鹿だから。修羅場に入って傷つく以外の方法では何にも気がつかない馬鹿だから。もっと動け。死にそうになれ。馬鹿だからすぐ復活できるから。それだけだから、君の能力。もっとその長所を生かせ。そして、そのリターンを死に物狂いで手に入れろ。
 タイトルとむしろ真逆のような結論だけど、実際はそんなに間違ってないと思います。
12. 信用はしても確認をする
 あー。無確認野郎。これは今でも直さないといけない。信頼する=確認しなくていい、いいじゃねえか俺とお前の仲なんだから。これすごい危険。そして何より怖いのが、まだこれで痛い目を見てないこと。20代で痛い目見るのと40代で痛い目見るのは大きく違うという認識はあれども、まだこの怖さを肌身で感じてないゆえ、どこかで裏切りやねたみそねみひがみといった信頼を転覆させる事変が起きる可能性がある。それは22歳の自分どころか、今の自分にさえ言い聞かせないといけない。
 確認をする。それだけでいろんなことが解るんだ。その一言だけ。それだけを22歳の自分に伝えます。それ以上は、僕もいえない。一緒にこの世の中で勉強していこう。

偏狭読書情報


【デジタルリーダーシップ】
これからの企業は、顧客をはじめとしたステークホルダーとどう付き合っていくか。何を発信していくか。そしてエンドユーザーからは草の根のようにブログやツイッターで発信される企業評価に、どうやってレスポンスを返していくか。今までのようにリリースを出したり声明を発表したりするだけで自分達を規定できない世の中になってきて、「周りがどう自分達を規定するか」をコントロールできない中で存在義を見出さないといけない。そのコミュニケーションツールとしてのFacebookやブログといったアイテム。コミュニケーション担当、フロントマンの役割が、これまでとは全く異質になってきた、その事を事例を通じて理解できる本でした。

【金閣寺】
 文学部卒業生なら当たり前に読んでろよ、という基礎素養ですが、なぜか今回初読。文章が綺麗。そして広辞苑をひきながらその文章力に耽溺してみたのですがこれがまた素晴らしい。面白い。ここではこの言い回ししかない、この単語を使うしかない、という適切な語彙配置の美しさに感動するのです。内容は童貞をこじらせた自己肥大青年の独白なのですが。それがこんなに美しく奏でられると、思わず共感してしまいます。安定した将来を壊しつつある僕も、何か永遠なるシンボルを燃やさなければ、と思いました。いやだからって陰毛に火をつけません。永遠のシンボルってそういう意味じゃない。

【族長の秋】
 おまえ本当に文学部生か。ガルシアマルケスすら読んでないとはあまりに文学的素養がなさすぎる。というわけでこれまた初読。圧倒的に素養が足りないことを自覚する38歳なのです。
 些細なエピソードですが、その昔僕が大学生だった頃、親しくしてくれた東京外語大の、一つ年上の先輩が居ました。見た目チンピラな風体も似合う、世の中を煙に巻いたような飄々とした兄貴分でした。「ヤス兄い」と僕らは呼んで、それこそくだらない遊びを沢山やってきたのですが、この本を読むと彼を思い出すのです。
 彼がこの主人公に似ている、というわけではありません。もっとすごく単純な理由。このヤス兄いと僕、そして女の子二人で何泊かの旅行に出かけたことがありました。94年の夏。河口湖畔でした。暑い日ざしと爽やかな風が吹いていました。コテージに着き、たゆたう時間が過ごせるような環境になったとき、コテージ脇の、日当たりの良いベンチで、煙草(しかもPeace!)をふかしながら、彼がこれまた飄々と、この本を読んでいたのです。
 その姿のあまりに文学部生らしかったこと!文士とは、文学の徒のあるべき姿はこれだ!と僕はそのとき勝手に思ったのでした。
 裸になって走り回ったり、あまり大きな声では言えない草に火をつけて吸ったりした悪い先輩と後輩の僕達でしたが、明らかに、彼には、文学の素養があった。大量の文章を咀嚼した上で、悪さをしていた。
 悪さと文学は関係ないじゃないか、と思う向きもありますが、僕にとっては「悪さ」=「文学」なのです。生きることに脆弱な僕は、一つ一つの反社会的行動に反芻的意味を付加していかないと納まりがつかないし、そのためには適切な語彙の力、物語の力、本質の力を借りないといけないのです。
 だったら反社会的行動しなきゃいいじゃないか、ともなりますが、そうなると今度は自分の中の語彙が、物語が、本質が、自由に行動できないために消化不良をおこすのです。なので、これからも反社会的に行動するのです。陰毛に火をつけたり。
 そんなわけで、僕は、今でも彼に憧れるのです。そしてそれを思い出しながら、この本を読むのです。
 そして全く本の紹介になってないのです。

放恣な生活の中で垣間見えるもの

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 真の意味で休養が取れているかといえば、実はまだそんなことも無く。本心は取れていないと感じます。ですが、ここまでの準備期間はむしろ重要で、これまでの期間があったからこそ、これから先については、十分に安息な日々を送れると信じています。皆様に感謝感謝。
 自らが本当に心休まるようになるためには、まず、焦りをなくさないといけません。「安静にしてなきゃ駄目」「ゆったりしてなきゃ駄目」という言葉をそのまま飲み込んで、ゆったりじっくり布団に篭っていると「あああなんて僕は駄目人間なんだああああ」という自虐や「あれやんなきゃこれやんなきゃそれやんなきゃ」といった焦燥感、また、「せっかくこんな機会なんだからあれやっとかなきゃああこれもやっとかなきゃ」といった自分の今の状況における豪奢な悩みを思い煩ったりもするのです。
 ともあれ、まず休養初めの一週間ほどはそんな声に耳をかさず布団に篭ってましたが、なかなか落ち着くことが出来ず、それこそやりたいことだらけでガスが溢れかえってパンパンになった自分をなだめすかしながら生活してました。暇を得て久々に自分自身と向き合ってみたら煩悩丸出しの自分に気がついたというべきか。
 で、正月前辺りから「じゃあ思う存分やりたいことやって、それが心の休養になるならいいじゃないか」とやりたい事を存分にやる毎日に切り替えました。それこそピアノ運動数学仏語英語映像制作3DCG制作論理学経済学会計学世界史読書読書読書映画鑑賞とやりたかったことをやり放題やってみました。なんだか真面目な書生っぽい事ばかりやってるみたいですが、実際はそんなことありません。やりたかったというか、これ、全部若い頃からコンプレックス・劣等感に苛まれてるものです。コンプレックス多すぎ。恋を止めないで。
 で、それだけいろいろやってみたらもちろん一日24時間では足りませんし、できる訳もありません。心が疲れて休んでるのですから、身も入りません。でもそれでいーんです。実際、やりたい事を思うぞんぶんやったら、まあ、ええ、心地よい、開放的な疲れを感じて「もう、満足。もう、ええわ」「ああ、休んでええわ。やれるだけやったわ」と芯から理解することができました。
 そして1月後半辺りから、休養に入れるようになった、と感じています。改めて一日のうち、やりたいことを少し進めて、後は安静に。自分の中の焦りや劣等感を引っ張り出して、正しい意味でなだめる事ができたのかと。この年になって自分の焦りに櫛を入れさせてもらえた事自体有難いことです。もちろん、なだめるだけではなく、身に着けたいと思っているものは、回復してから改めて挑戦していきます。読書や映画鑑賞はそういった類ではないので、ぼちぼちと変わらぬペースで自分遊びを続けてますけどね。
 そんなこんなで30代後半の冬休み。写真は日暮れ前の福岡町、通称「裏の宮」の本殿。拝殿を通して、本殿にいきつくような心持なのでございまする。