マーマレード家族

ある人の不在を痛感するなら、それはその人の家族である。(血縁の有無にかかわらず)
僕の20代を知っている人なら存じて居る方もいるかと思いますが、僕は極度の淋しがり屋であり、それこそ強迫神経症的に孤独に耐えられない頃がありました。ほんま、おかしいほどに。単純に精神的に弱かっただけと言っても差し支えないけど。今でも弱いけど。だから女性の皆様僕のそばに(略)。
大学一年の頃などは、ほとんどを友人宅で過ごすか自宅に誰かを連れ込むかで、一人寝をした夜は数えるほどしかなかったんじゃないかと思います。とにかく自分一人の時間を過ごしたくなかったんですね。大学2年に連れ合いの人が出来てからは、それとなく落ち着いた生活をし、2000年ごろに荒んだ生活をし、その直後に結婚して8年、今に至るという、まあそれなりな20代を過ごしてきました。
今更なんでそんな話になるかと言うと、僕がそういう生活を送ってきたことによって、一人で黙考する時間がなかった代わりに、非常に長い時間をともに過ごすことのできた仲間、それこそ「その人が不在である際、違和感を覚える」くらいに濃い時間を過ごした人がたくさん居てくれた、と言う事を改めて振り返える機会があったのです。
誰かが自分のテリトリーから少し遠ざかる、と言うだけで僕はとても悲しいと感じる。
この思いは自分勝手なものであり、わがままな感情だと言うことはとてもわかっていたとしても。
19歳ぐらいから、今に至るまで、ずっとトラウマのように「遠ざかる仲間」と言うものに恐怖心を抱いてしまいます。まだまだお子ちゃまなんだよなぁ。独り立ちしてないんだよなぁ。
みんな、家族であってほしいというわがままな思いなんですよね。
別に僕の家族が仲悪かったり、家族不在で心的空白があったりするわけじゃないのですが。
両親健在で、むしろ家族は非常に仲良かった方なんですけどね。なんでなんだろ?
で、まあそんな思いを勝手に押し付けられても溜まらんと思いますので、僕は勝手に「とりあえず熱く接する」と言う姿勢で生きています。「家族のように」と言うと、その人その人によって家族というものの捕らえ方が違いますので、まあ僕が考える「家族的暑苦しさ」で接しています。
これで10年以上過ごしてきて、自分が望んでいたように(僕が勝手に)家族だと思える関係性はとても多くなったと思います。
でも、その分、その人がある種の共同体から離れてしまうとき、淋しく感じる強さも人一倍なんだよなぁ。これが切なく、もどかしいんだよなぁ。
まあ、長々と何を書いているかと言えば、そんな気持ちで会社の同僚の送別会に参加してきました、とそういうわけです。

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