3月11日

 この日を語る言葉は持っていない。
 何を書いても、うまくまとまることはない。
 その日は公休日で、友人夫婦と新宿にてんぷらを食べに行く約束をしていた。
 我が家としては非常に珍しく、(リハビリを兼ねて)家内が一人で先に都内に出ていて、僕が自宅に一人で過ごしていた。こんな状態は年に2,3度あるか否かだ。かみさんが外に出るときはほとんどの場合僕が付き添っているし、僕が仕事に言っている間、かみさんが家から出ることは滅多に無い。
 僕は一人で自宅に掃除機をかけたり、映画を見たりと過ごしていた。
 2時46分に何をしていたか、はっきりと覚えている。PCに向かってメールチェックをしていた時だった。
 iPodからは最近愛聴している「Snowbound / Donald Fagen」が流れていた。
 
 揺れた瞬間は、よくある、いつもの地震と思っていた。
 が、次々と大きくなる揺れに、恥ずかしながら一瞬にして怖くなった。
 生まれて初めて机の下に隠れた。PCの載っているラックを必死につかんで、震えていた。
 棚から段ボール箱やテレビ、荷物が数多く落ちてきた。
 スピーカーから流れるDonaldFagenの声、美しいフレーズが一層クリアに聞こえた。そのゆったりしたハーモニーが、余計に怖かった。
 揺れが収まってから、少し深呼吸をして、机下から出た。
 
 事の重大さに気がついたのはそれから15分ほどしてからだった。
 連絡が取れない。電話が繋がらない。メールも不通。テレビもtwitterも各種メディアも、混乱してて良くわからない。とにかく、なんだか大変な事が起きていた。ただ、それが何なのかは解らなかった。
 阪神大震災の時、僕は大学2年生だった。
 西武柳沢に借りていたワンルームで、当時の彼女とテレビを見ながら、現実の事と感じられないその「メディアの先の混乱」をどのように自分の中で消化するか、別の意味で混乱していた。
 どちらかというと「湾岸戦争」や「ベルリンの壁崩壊」をテレビの先で見ていたときと同じ感覚だった。
 申し訳ないのだけれど、関東に住んでいて、大阪や神戸に一度も足を踏み入れたことも無く、人生の経験値も少なく、想像力も貧困な自分には、あの当時のことを現実のこととして受け入れることができなかったのだ。
 今回は、明らかに肌でその威力を感じた。自分の肉体と繋がっている場所で何か大事変が起きた。多数、繋がっていることを当たり前と思っていたメディアやツールが混乱した。自分は何もできなかった。
 ただとにかく、人間として、組織人として、家長として、やるべき事をPCの前でやるのが精一杯だった。
 一つは、かみさんを安全な場所に誘導すること。
 一つは、会社と連絡をとりながらでき得る対応を行うこと。
 できることを全部できたかどうかは解らない。とりあえず、かみさんは友人の家に避難することができた。(宿泊させていただいたYさん、とても感謝してます)
 
 それから先の一週間は、数多くの日本人の総意とほとんど変わらない。得られるニュースも、その中で考えることも、できる対応も、変わらない。今はただ、日本人の一人として、できる限りの支援をしながらも、平時と変わらずに、復興のため、次の繁栄のために精一杯がんばること。
 ありきたりな結びだけど、できることをやりきる。しかない。
 今自分の居る、この状況を、ありがたく受け入れて。
 日本に生まれて日本で育った、社会に属して生産と消費を行う一人として、がんばります。

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