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少し前、Twitterでこのような事を書き込んだ。
「もうこの人生の中でやるべき事は二つしかないと気がついた。」
このTwieetに、そんなに反響があった訳じゃない。そもそも人は他人にそんなに興味が無い。僕のやるべき事が1つだろうが1024個だろうが、それに興味を持ってくれるのは親兄弟と妻ぐらいのものだろう(そして家族というのは常に目を掛けてくれていると言う意味で、本当に有難い存在だ)。
とはいえ、これは僕だけではなく、それぞれ目にした人たちに、「自分のやるべきこと」を思い返させたようだ。
・自分はこれから何をするべきか。
・何をする為に生きてきたのか。
糞真面目に言えばそういうことだ。青臭い20代の就職活動やうそ臭いセルフブランディングのような、でも、これからの時間の使い方や行動規範を決めてしまう結論を導き出す疑問。僕もそろそろ「不惑」だが、これは上記の疑問に対して、ある程度目処をつける年齢だと教えられているような気がする。
僕のやるべき事、はとてもシンプルで「家族を作る(守る)事」と「ある職業に就き、生涯貫く事」です。でも、まあ、僕のことはいいです。僕の事は置いといて。
様々なメッセージを頂いた。もちろん、僕の2つが何なのか、を問うてくれる方もいたし、何がそう思わせたのか、自分にとっては何なのか、見つけ出す方法論はあるのか、本当にその2つだと断定する事はできるのか、等々・・・。改めて自分自身でも振り返って熟慮させてもらいました。
僕が「この二つしかない」とTweetしたのは、逆説的ですが、「決めてしまえば後はなんとかなるかな」という開き直りと、「うん、まあ、大体間違い無いかな」という八割方の正解予測をあたかも100%正解の真実のように語る詐弁を使った事に他なりません。
大体、そんなもんだと思うんですよ。本当にやるべきことなんて、ひょっとしたら無いかもしれない。生きてるだけで丸儲け。何か義務感を感じる必要なんて無いというのも正直なところです。目の前が楽しければそれでいいんです。刹那の喜びを重ねていけば、良い人生になるというのも決して間違いじゃないと思ってます。究極のところ、食欲性欲睡眠欲だけ満たして生きると云うとてもシンプルな生き方もカッコいいと思ってます。
でも、逆に「やるべきこと」のような行動規範があったほうが、僕は楽しいし、楽なのです。
えーと、僕の考え方はこうです。プリミティブな欲求を満足させる事だけを、生きる目標とするとですね、結構メンドクサイなぁと感じたんですよ。例えば、食欲を満たすためには、当然だけどお金を稼がないといけない。稼いだお金で、自分の食欲を満たすためには、量をどれくらいにして、どんな質のご飯を食べるか考えなくてはいけない。ココ壱のカレー大盛りなのか、富山のマス寿司なのか、二郎ラーメンなのか、超高級料亭の懐石料理なのか。今、自分は何をどれだけ食べたくて、明日何をどれだけ食べたいのか。これを追求していくと、当たり前ですけど経済学のように大なる成果のためにある程度の資源を効率的に投入するかを考えていかなければいけなかったりするわけですよね。正直面倒くさい。
この、効率的に、って発想が僕は完全に欠落してるんですよ。
で、これはまた以前のブログ記事に立ち返った話になるんですが、ちょっと前までは沢山食べたらそれで満足という身体だったんですね。そこには計算も効率もへったくれもなく、「少しでも量の多いもの」「品数の多いもの」をチョイスすれば自分は満足する、というとても簡単な一軸による正解があったのです。睡眠欲も「布団の質とか枕とかどうでもいいから沢山寝ることが正解」だったし、性欲も(略)。量こそが正義。量こそが幸せ、という高度経済成長的肉体を有していたのです。効率とかどうでもいい、バランスとかどうでもいい。そういう行き過ぎとか足りないとか考えるのが一々面倒くさいというとっても怠惰な脳みそをもって生きてきたわけです。
(この「怠惰な脳みそ」というやつがまた厄介者なのですが、これを語るとまた終わらないので後に回します。)
でも、最近、「量こそが正解」じゃ、なくなってきた。
その経緯は先日のブログの通りですが、食べ過ぎるとお腹を壊す、寝すぎるとしんどい、後一つは僕の沽券に関わるので言わせるな、ということで、量と品質のバランスを取っていかないといけなくなってきたのです。
なのですが、先ほどから散々言ってる通り、とにかくバランスを取るだの調整するだの最適化だの、僕の性格では適度・適量を量るということがとにかく面倒で大嫌いで、これは何かの病気ではなかろうかというくらいにオンかオフ、100%か0%、死刑か無罪、仲間か敵、白か黒もしくは全部灰色と、決着をつけたがるのです。こういう極端な判断をする心理を、医学的には境界性人格障害というらしいですが、僕は別に障害を持ってるわけじゃなく(いや、わかんない。ひょっとしたらあるのかもしれない。調べてないだけです。これも面倒くさいから。)、ただ単に脳みそが考え抜くのを面倒くさがってるだけなのです。
僕は今一体何回面倒くさいといったのだろう。本当に駄目な大人だ。
で、話が長くなった。元に戻して。
年を重ねてくると、プリミティブな欲求だけを求める事が、全然シンプルでなくなってきて、いろいろ考えなくてはならなくなってきたのです。で、いろいろ考えた結果(矛盾してる)、やっぱりバランスを考えるのは面倒くさいという結論に達し、考えなくてもいいようにするためには「何をするべきか」明確にしてそれに沿って生きてけば考える必要は無いんじゃないか、と思った次第です。
こういう思考のタイプを、「労働者型思考停止タイプ」と言います。法律とか常識に疑問を持たないで会社に奉仕する、ちょっと頭の弱い、だけど資本家からすると一番使い勝手の良い一般社会ピープルなわけです。理想的サラリーマン。日本型雇用の申し子。それが僕です。
なので、「人生でやるべき事」なんて仰々しく書いてますが、何かを悟ったり目覚めたりしたわけじゃなく「このアタリで今のところ決めておいて、強く当たって後は流れでお願いします」と、自分が悩まなくて済むように、自分の中で適当に腹落ちさせておいたものになります。いうなれば僕にとっての憲法みたいなものです。(こう書くと憲法学者に怒られそうですが、憲法だって法律化しようとすると面倒くさい案件の方針を、根底的に規程してるものでしょ。僕そう思ってるんですが)
と、また斜に構えた言い方してますが、ココは僕、結構大事な事言ってると思ってます。
正直自分のやるべき事なんていくつになってもわかりゃしません。多分コロコロ変わります。んなこと理解してます。だからこそ、80%の確信があれば、それでもう行動規範にしていいんじゃないか、と。後になって変わってきたらまた変えればいいだけの話で。誰に迷惑掛ける訳でもない(かみさんは振り回されるかもしれませんが)。でも、考え続けてるくらいなら、行動したほうが早く結論に到達できる、と信じています。ここもまた、「思考するのが面倒くさい」型発想で、ある程度正解っぽいものが見えてきたらすぐ行動に移って思考を停止させるというお得意のパターンになるわけです。
というわけで、
「もうこの人生の中でやるべき事は二つしかないと気がついた。」
一応、ほら、もう僕も不惑近いわけですから。そろそろ気がついておかないと色々と大変になっちゃう訳ですよ。気がついたことにしておいて下さいよ。
なんだか、僕にメッセージをくれて真面目に質問してくれた方々にとても失礼な事をした気がする。
わが息子よ、君はどう生きるか

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