芝居。それは全ての母。

先日、芝居を見に行きました。
観劇なんて何年ぶりだろうか。

それこそ、大学時代には何百とお芝居を見ていたし、その後卒業した仲間たちと劇団プロジェクトで舞台監督なんてものもさせてもらった。脚本も書いた。

大学時代は演劇専修に行きたくて勉強する、ふりをして麻雀をしていた(母校は1年→2年時に専修が分かれるシステムだった)。その故あって見事に落第。専修の合否が発表される日、当時好きだった女の子は僕の家に泊まっていた。「ちょっと見てきてよ」と言われ、素直な僕は彼女の分も確認してきた。公衆電話から自宅に(変な言い回し)、君も落ちてたよ、と伝えた。じゃあどうしようか、という話になり、その子は「じゃあ英文科にする」と答えた。
僕は英文科に行くことにした。

それはさておき。
…やはりお芝居は素晴らしい。何よりも素晴らしい。映像はおろか、文学も音楽も音響も照明も朗読も立ち居もデザインも、全ての親は演劇だ。祭りだって一種の演劇だ。僕のやってることなんて、その孫の孫の孫以上の傍流に過ぎない。物語の構造は既に4000年前に完成されていた。

一度幕が上がると脚本家の手も、監督の手も離れて役者が自由に表現するステージという場。そこで僕は一体何ができるのだろう。
舞台に立つ側の人間と、見る側の人間。そこに一方的な「どちら側」という差異はなくって、好き好きに入れ替わるものです。パーティのように。恋愛のように。逃げ恥ダンスを踊るのに、一方的な舞台側と観客側はないのです。舞台は現実と地続きだ。そして同時に、舞台は絶対に越えられない境界線の先の異世界だ。

もっとみんな舞台に立つことを経験したらいいのに、と思う。スポットライトを浴びる魔力、カメラで切り取る魔力、どちらも知ることで、もっともっと幸せになると思うのです。

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