人生は美しい

いつも僕は、FacebookやTwitterといったSNSを使って、そこで発言したことをまとめてBlogに書き留めている。
また、時代のゆえもあるだろう。SNSでつながった方々は各々のウォールにプッシュされた僕の言葉を見ることが比較的多くなっていることだろう。

Blogというメディアは、あくまでも僕に興味を持ってくれていて、このアドレスまでたどり着いてくれた人、または購読をしてくれている奇特な方、しか読まれていない、と思っている。そう、それは、それで、いいんだ。そういうものだし、僕はそういうメディアとしてのblogとずっと付き合ってきたんだ。

その中でも、たまに、ふっとSNSに記載した言葉とは別に、このBlogにだけ、言葉をしたためたくなる、時がある。
誰に読んでもらいたいわけでもない。だからといって、チラシの裏に書き留めておくわけにもいかない。わずかな自己顕示、そして、自分自身がどこにいても自分の文章を読めるという安心感、そして何より、他者に向けて見られる場所に言葉を発信しているという緊張感の中でものを書くことが好きだから、なのだ。

この世は、本当に美しい。
ただ、そんなことを言いたいために、僕は今ここに書き込んでいる。

独立して、丸2年が経つ。

その間、フリーランスとして僕は社会の庇護をあまり受けられない立場に身を置きつつ、その中でなんとか悪戦苦闘してきた。
思うことは、3つ。

一つは、愛されて、僕は誰よりも、何よりも、素晴らしく、幸せで、充実した毎日を送っている、という自覚。
先生やステージをはじめとして、あまりに多くのロールを演じさせてもらっている。いや、演じてはいないんだ。その全てにおいて、僕は無邪気な5歳児のように、ただひたすらに無垢に、素のままに遊ばせてもらっているのだ。そして、その姿をまた、受け入れてくれる人がいて。無邪気にいることが、砂場でお城を作るが如く映像やその他数多くの表現を生み出すことが、世の中の役に立っているような錯覚に襲われて。軽い目眩さえも感じる。
こんな40代を誰が想像しただろうか。こんな中年になると誰が想像しただろうか。

いや、逆説ではない。実は、僕はどこかで想像していたのだ。
明らかに、今の僕は、10代、20代前半の僕が、憧れていた自分の姿に他ならないのだ。
まさか、40を超えてから理想の姿に近づき始めるとは僕も想像していなかったけどね。
もちろん、理想の自分になったわけじゃない。理想の姿に近づけるように一生懸命、もがいているんだよ、毎日そのために生きているんだよ、と自信を持って10代だった自分に語れるのが、素晴らしいのだ。
…ほんとうなら、自分の子供に背中を見せなきゃいけないのかもしれないけどね。おらんもんはおらんからしょうがないじゃないか。

 

この世は、本当に美しい。

一つは、そばにいる人の存在。
まずは誰よりも、かみさん。こんなにも僕のことを受け入れてくれて、そのままでいることを許してくれて、この世における僕の苦手な事項を全て引き受けてくれて、僕自身をこの世に承認させるために全てを投げ打ってくれる存在。そりゃね、こういう関係になるまでに、15年くらいはかかってる。一朝一夕に夫婦関係が出来上がったわけじゃない。
とてつもない地獄のような日々もあった。
けど、ある時に。社会や企業、理不尽といった大きなものと、僕ら夫婦が対峙して戦わなければいけなくなったことがあった。それも3年くらいの範囲の中で3回も。その度に、かみさんは誰よりも僕を信じて、そして全てを投げ打って僕を守ってくれて、頭脳として活躍してくれた。
その時も、僕は無垢な少年のような顔で社会と接するだけで、全ては解決していった。疲弊するような神経労働、感情労働は全てかみさんが担ってくれた。
いろいろと誤解もされやすいし、体力がない中で精神的に尖りやすかった時代もある。それでも、かみさんはかみさんなのだ。
かみさんが僕に求めることは二つだけ。「ずっと面白く、楽しく生きてください」ということ、そして「私より長生きしてください。私を一人にしないでください」ということ。すなわち、僕は彼女の人生の中で、ずっと楽しそうに彼女よりも1秒以上長く生きることこそが、僕の生きる意味なのだ。カミさんがいなくなった後、僕は寂しくないかって?僕自身はこの世に愛してもらっているから、一人でもほんの少しの間なら生きていける。かみさんは「後妻を用意しようか」って笑いながら言ってくれる。
一人だけでも幸せにすることができる人生なら、上々じゃないか。

この世は、本当に美しい。

一つは、生きるということ。
先日、祖母が他界した。享年95歳。大往生だった。
孫8人、ひ孫9人に囲まれて、しゃんとした凛々しい姿を最後の最後まで見せてくれた祖母。最期まで、ひ孫全員の顔と名前を覚えてくれていた。元気に走り回る姿を全て喜んでくれていた。そして、親族が笑顔で集まれる場を、作ってくれた。
生きるとはそういうことなんじゃないだろうか。お金とか、仕事とか、男女とか、そんなことは本当にとんでもなく小さいことで。
そう、最初の話にリンクするけど、僕はさまざまなロールを演じさせてもらっている。先生や、クリエイターや、ラジオ語り屋や、ステージマンや。
でも、そのベースは、長男、とか、孫、とか、愛される存在、というロールと責任を果たすことだと思っている。
そして二つ目の話にもリンクするけど、楽しそうな姿でいることで、夫というロールの責任を果たせるのなら、それ以上、何が必要なのだろうか。

この世は、本当に美しい。
誰がなんと言おうと、僕の目にはこの世が美しく映っている。

だからこそ、僕は映像を作り続けられるのだ。
僕に見えている、この素晴らしい世界を「ほら、あなたのいるこの世界は、こんなに素敵なんだよ」と、2017年に存在する全ての技術を駆使して、できる限りの方に全力で伝えるために。
伝えることで、お互いに幸せになるために。そしてこの世が、より美しくなるために。
本当に、ありがとう。

 

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