コロナにおいて

辛辣であることを前提で書く。
気が緩んで外出して大繁殖、となってもそれは致し方ないこと。

個人個人に自粛を要請しても、様々な思想の人間がいる限り統制も抑制もできないし、行動をお互いの「思いやり」とか「国民が一体となって」という曖昧な言葉で強制することはできない。

そのために国家があって強制力を用いることが許される権力を民間が自ら選べる体制となっているのであって、その権力が強制力(そして補填)を行使しなければ、大繁殖は起こり得る。

何度だっていう。大衆はそもそも愚民なのだ。賢く一人一人が自制心をもって組織的に振る舞えたことなど、古代ローマ時代から一度たりともない。更には、そんな「自立したマスゲーム」のような社会を理想としたこともないはずだ。(オーウェルの時代から、思想統制された衆愚自体は揶揄される存在だったはずだ)

いや、「愚か」という言葉が強すぎるのであれば言い換えよう。
様々な思想、それこそ死生観さえ違う大衆に、だれが「健康と生命が最も大事」という思想さえも強制できようか。

「長寿と健康が一番大事ではない」という思想さえも、一つの思想として許されるのが「思想の自由」の根底である(それは医学や法学の規範を覆えすものではあるが)。そして、それはウィルスという媒介の元では「生命と思想」のどちらかを抑圧せねばならなくなった際にどのような選択をするかを求められる。

全体の生命のために、個人の尊厳思想に歯止めをかけるのか、自由思想をもったまま滅亡に向かうのが美しい自由社会の正しい在り方なのか、という大きな思索のタームに入るのである。

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と書いたけど、一つ追記がある。

僕は確かに権威とか権力が大嫌いな人間だけど、強いて書く。

「おい権力、ちゃんとしろよ。
あんたらが強制とサポートをちゃんとやれば、尊厳と生命をどっちも守ることができるんやで。あんたらが「できる限り大勢の納得する強制力」を発動すれば、みんな「民主主義で選んだあんさんの意見や。しょうがねえなぁ」ということ聞くはず(聞かなければいけないはず)なんやで」と。

そしてその「できる限り大勢の納得」が間違ってたら、残念や。あなたたちは権力の座から引き摺り下ろされて、別の「国民に選ばれし」別の権力が立つだけだ。それで被害を被ったとしても、選んだ国民の責任だから仕方ない。国民主権とはよく言ったものだ。思う存分やるがよろし。ただ保身は考えるな。精一杯「良かれ」と思った行動をとって、その上で間違ってたら退場するがよろし。

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