ランジェリーパブの思い出

赤坂見附
赤坂見附に行った。みすじ通りのランジェリーパブで働いていたのはもう20年前か。当時まだ10代だった。あの頃の店長の年齢もとうに超えてしまったなぁ。1993-2013。
何故そこで働こうと思ったのか今となっては解らないけど、当時は若いなりに社会を知りたいという欲求に従ってアルバイトをチョイスしていたのだと思う。同時に「絶対に、家庭教師と塾講師はしない」という変な決意もあった。どんなに時給が高くても、やりたくなかった。実家が学習塾を営んでいる僕にとって、それは「実家に帰ればいつでもできる」事であり、自立しようとする意思から逆流することだった。
今は色々言われているが、当時は(今も?)水商売・客商売の下っ端は体罰も当たり前だった。僕は決して体罰容認派では無いが、客前に出せる行動、言葉遣いが出来ない若造を店に置くからには、身体で叩き込むしか方法論が無かったのだろう。
(それは、今振り返ると、社会経験の無い僕が役に立たなかったのは当然であり、それを教育するシステムも無いままに雇ったり店頭に出したりする仕組み自体が問題だったのだと理解している。当時は「現場でしごいて教える」という丁稚システムがまだまだ幅を利かせてた時代だったのだ。)
当時は大学生で、それなりに女性とも接する学生時代を送っていたとはいえ、所詮学内のオシトヤカなお友達づきあいだけの閉鎖的な空間に居た。恋愛関係なるものも経験した事がなく、まだまだウブな19歳だった。
ランジェリーパブでは、そんな僕の前に、数多くの女の子達が突然にして現れた。
もちろん、色恋沙汰は無い。だけど、ウェイターと女の子、全くクチを聞かないわけでもない。同じ店を盛り上げる仲として、オープン前やクローズ後、それなりに打ち解けて話をすることが多かった。
打ち解けるようになって1ヶ月ほど。初めに思った事。
精神的に自立もしてなければ社会も知らない僕にとって、彼女達のなんと精神的に立派な事か。経済的にも社会的にも自立している事か。
いろんな子が居た。仙台から出てきて、ホストの彼氏と二人で住みながら将来飲食店を持つために貯金している子。博多から出てきて、ただとにかくファッションの世界に身をおく事でしか安心感を得る事が出来ない子。読書が好きで、一人で居るのが好きだけど、その反面彼氏依存で、ヒモの彼氏に捨てられないために頑張る子。普通の大学生。様々な経緯でそこに集まってきた人たちが、また様々な経緯で出会い、関係を織り成していく。
(因みに女の子にとって、お客様(オトコ)はもう完全に「物体」でしかなく、オープン前もクローズ後もお客様に関する話題は一切出てきませんでした。本当に、興味をもたれてないと言うのが良くわかりました)
彼女達は、僕と同じ19時歳の子もいたけれど、皆仕事に対して(どんなカタチであっても)ポリシーを持っていたし、生きるうえで大事なものが何かを理解していたし、それをお互いに尊重する寛容さも持ち合わせてた。言葉を変えれば、人が生きる上での「こう生きなきゃいけない」みたいなレールにものすごい幅があり、そのどこを進んでも自己責任でいいよね、というものすごく割り切ったサバサバ感があった。お金というものに対する接し方も、人それぞれではあるが哲学が見え隠れしていた。
僕は、そんな彼女達と一緒の空間に居る事が、とても恥ずかしく、また、またとない社会経験の機会としても捕らえていた。
僕が勤めていたお店は、オープンが18時。閉店は午前2時。
17時からお店に入り、30分掃除をしたら、早速マカナイが出る。マカナイはいつもその日の食材で決まるオリジナル料理だった。開店時は野菜スティックやポッキー盛り合わせ、水割りを作ってるその厨房は3畳ほどのスペースしかなかった。そこで、あまり会話をしない寡黙な厨房担当は、少し塩味の強い東北風味の料理を作ってくれた。日替わりで出てくるオリジナルなチャーハンやカレー、サンドイッチはとても美味しかった。
それを食べ終わると、その場に居る店長、副店長、女の子、厨房、ウェイターがみんな集まって、通称「ジュージャン」をする。何のことは無い。「ジュースを掛けてじゃんけん」するだけだ。勝ち抜けじゃんけんで、負けた子が全額自腹でコンビニから各自のジュースをご馳走する。僕はあまり負けたことは無かった。でも、負けることはとても怖かった。それはジュースをおごる、という経済的負担より、みんなが「メモも取らずに全員分のジュースを間違いなく買ってこれる」人たちだったため、僕が負けた時に「覚えられるだろうか」という恐怖が先にたっていたのだ。間違えたら、「ヤマモトォ、お前そんなこともできねえのか!」と(本気では無いだろうが)膝蹴りが飛んできたのは間違いない。厳密に言えば、その体罰自体が怖いのでなく、「ジュースすらまともに買って来れない、役に立たない自分」に気付き、気付かれる事そのものが怖かった。
買い物と言えば、僕はその店でイロイロと社会の隠語も教わった。いまや普通に使う言葉だが「マイセン(マイルドセブン)」「PM(フィリップモリス)」「セッタ(セブンスター)」「マルメ(マルボロメンソール)」。こういった言葉は全部この店で教わった。もちろん煙草だけではなく、お酒用語も、接客用語(社会人になってからは使えないような水商売専門用語だが)も、沢山教わった。
店長と副店長、そしてメインで入っている女の子達の煙草を用意して、ウェイターの仕事は始まる。
(時代の後押しもあったのかもしれないが、男女共に喫煙率は100%だった。)
後はひたすら接客業。ビールを運んでひざまづき、うやうやしくビール瓶を置いて、会話の邪魔にならないように綺麗に去る。
この一連の行為が、またとても難しくって、僕は何度も叱られた。
ここでも、一番大事な事は筋肉だ、と感じていた。
当時、一緒にお店に入ってくれていたメンバーの一人に「アズマ」という名の男の子が居た。
年齢は僕と同じくらい。でも彼は、このランパブの親組織に属している青年で、メインの仕事は街場で女の子をスカウトする事だった。もちろん、それなりに細身で身なりにも気をつけている、いわゆる「イケメン」だった。
そんな彼は、「これから店を背負っていける立場になる為に」ということで、内勤も経験しなければならないという先輩からの推薦で、僕の居た店に配属されてきた。
彼は店に来た段階で、ウェイターは未経験。立場的には僕より3ヶ月後輩。ウェイターとしては僕の方が長くやっていた。その意味では、僕の方が先輩でもあった。
が、そんな自信はものの見事に打ち崩された。
気の配り方、身のこなし方、ジュリアナサウンドが大音量で鳴り響く中での女の子の合図の見逃さなさ、目利き、動き、そしてちょっとバックで休むこズルさ。ああ、これがこの業界で働くと言う事なんだ。と僕はその時に実感した。「人」「気配り」「応対」それが社会を形成してるスキルなんだ、とその時にはっきりわかった。と同時に「僕は、何も、できない。」という事も理解した。
これは僕が大学時代に得た経験の中でもかなり大きな比重を占める自己認識だ。
アズマとはその先もなんとなく仲良くなり、彼の家に泊まりに行ったり、僕の家に遊びに来たりした。ミスター水商売とも思える彼がどんな生活をしてるのか、僕はとても好奇心旺盛に彼の家をお邪魔したのだが、そこはあまり、僕ら大学生と変わることはなかった。ただ少し、ファッションが多く、散らかってはいるものの女性が見たときに不潔に思うような状況ではなく、後は丸まった葉っぱやそれを吸い込む道具があったりして、とても興味深かった。そんな彼と、一晩えんえんとテトリスをしながら、夜を明かした。水商売で生きる男女の居る世界と、ただの大学生である僕の居る世界、何が違っていて、何が一緒なのか、その距離感を少しづつ掴んできた。
店がクローズすると、夜は2時。もちろん、終電は無い。
その時間になると、お店の外には「送り」と呼ばれるバイトが店頭に集結しているのだ。彼らは、現金払いで運賃をもらい、僕らウェイターや女の子達を、自宅まで送り届けるのが仕事なのだ。要は、店専属・帰宅専属のタクシーということだ。
よく、僕の住む西武柳沢方面を担当してくれたヤスさんは、今で言うステップワゴンのようなワンボックスカーのオーナーで、裏道を高速で飛ばしまくるのが好きだった。今思っても、よく人を轢かなかったもんだと感心する。とにかくマンションの隙間を時速60~80km代ですり抜けるのだ。それを助手席で怖がる女の子達の動きを見て、喜んでいるところがあった。僕が乗る後部座席のその後ろには、コンサートででも使うような大型のスピーカーが2台、上向きについていた。そこから流れる曲は決まって「2-unlimited」(時代だなぁ)

爆音でテクノを聞きながら、女の子達とあわよくば、の下心をもちながら、ヤスさんは僕らを送り届けてくれるのだ。そこで起きる会話は、お店の女の子達との会話とは又一味違って、面白かった。
お店でも、それなりにセクシャルな話は飛び交っている。そんな会話に飽き飽きしながらも付き合ってくれる女の子達の集団だ。でも、夜のドライバーとの会話は、仕事モードから脱却された女の子達がリアルに彼氏の話とかホストの話とか、借金の話とかが(話、というより愚痴ばかりだが)飛び出してくる。その会話をかいくぐって口説こうとするヤスさん。後ろで素直に聞いている僕。
「そこの、俺のMA-1取って」
「え、え、え、MA、なんですか?」
「山本ぉ、お前ファッションにも詳しくなんねと、モテないぞ」
そんな会話を通じて、僕は少しずつ、自分中心の小さな世界から外の世界を見るようになってきた。
因みにMA-1とは・・・。

同じ方向で帰る女の子は二人居た。「優香」と「葵」。どちらも源氏名だ。本名は知らない。田無やその先から通ってきている女の子達だった。
そんな彼女達と僕の帰り道はほぼ同じ方向にある。だけど、帰り道は全く一直線じゃない。時には六本木のラーメン屋に寄って夜食を食べる。女の子が海にいきたいといえばなぜか晴海ふ頭に行く。そんなこんなで帰宅時間は6時を越える。拘束時間としては賞味13時間/日になる。でも、これがまた楽しい時間帯だった。若かったんだな。
そのバイトは半年ほど続いた。93年の秋から、94年の春ごろまで。
大学一年の後半、冬休みは、このバイトに精を出していたと言っても過言ではない。
大学時に入ったサークルがあまりにも居心地よく、そこを抜け出せない自分にジレンマを感じながらも、「東京に出てきたのだから、世界を知らないと」と無い頭をひねって考え出した結果が「水商売で働こう」だったわけだから、その脳みその短絡性たるや、と思う。
でも、今振り返ると、僕の経験値として、この店でのアルバイト経験は充分に、役に立っている。
・・・
論旨もなく、ただ漠然と筆の向くまま、思い出を書き綴ってしまった。
もう少し、この店の思い出を話そうか。
その店で、僕は「美奈緒」という女の子と、割と親しく話していた記憶がある。
(つづく)
ランパブへ行こう! (デザートコミックス)

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