バルト→ドゥルーズ→スピノザ。
ドゥルーズの語る「差異」について考えるとき、どうしても再帰的な自己の能動・受動の関係に目を向けなければならない。
そして「エチカ」に描かれた万物因子の汎神論に立ち戻るとき、僕はまず何より自分の本職である映像編集と重ね合わせた姿を考えてしまうのです。
万物には必ず究極的な原因がある。それは物体に限らず、物語にも。それこそが実態であり、神であり、自然であるとスピノザは語る。
映像を重ね合わせていくときに、そのカットの並びには必ず因子がある。それは巨匠が積み重ねてきた理由や番人への浸透といったものに限らず、決定された因子がある。それは撮影と編集、という技法的なものに依らない、自己触発的な再帰性をもった物語の表現における「本質」が。それがいったい何なのか、未だに僕はわからないけれども。そして、この部分について深く考えると、やはりその先にはロランバルトが存在している。これもまた輪廻の物語ではないだろうか。

G.ドゥルーズ 平凡社 (2002-08) 価格:1,404円
MEDIAMARKER.NET