賊のままに、勝ってはならない。

勝てば官軍 という言葉がどうにも苦手でして。

将棋が好きで、時々遊んだりするのですが、まあ下手の横好きというか、まあ、その、あまり賢くはないのです。
そんな中で、なんとか泥沼勝負を制することができるときもあるのですが、改めてその最終棋譜を見たら、ご覧の通り「うわ私の年収低すぎ」じゃなかった「うわ私の棋譜汚すぎ」というあまりにひどい棋譜が出来上がっていたりするわけです。

で、そこで「勝てば官軍」思考について。
勝ったから棋譜が汚くてもいいじゃないか、という発想がどうにも受け入れられないのですよ。この勝負、勝ったかもしれないけど、僕そんなに楽しくないのですよね。たしかに勝つためにいろいろ考えて結果を出してはみたものの、見る方が見たら分かる通り「お前途中で考えること放棄して物量投入しただろうええお前は資本主義の犬かトランプノミクスか男の風上にも置けぬわこのポピュリストめ」という声がまことしやかに聞こえてくるのです。

楽しんでやってることなのだから、勝った負けたよりも、よりその行為や経過を楽しんで、美しくしないとダメじゃないか、と。
勝ち負けで家計が決まり、生活かけてる棋士ですら棋譜の美しさを追求するのに、お前が楽しまなくてどうするんだ、と。
勝つことに何の意味があるんだ、と。考え抜いて、考え抜いた結果が綺麗な盤面に現れるのが面白いんじゃないか、そして面白がるために将棋やってるんじゃないかと。
勝つことで得られるドーパミン放出だけ欲しいのなら、パチンコや麻薬でいいわけです。

ゆえに、汚くても勝てばいいんだ、とはなり得ないのです。たとえそこに生活がかかってたとしても。

そんなことでは生きていけない?生活できない?いやもちろん負けてらんないよ。もちろん、勝つのだよ。だけど、汚く勝って満足してるよりも、美しく勝てる道を探したほうが、よっぽど価値があることだとも思うわけです。

いや、言い方が違うな。本当に「なりふり構わない生き方」ってのは、意外と美しいものだったりすると思うのです。
それこそ、信条かけて、精一杯頭を使ってリスクを背負った行動が、汚いわけがないのです。
それが汚ければ、それこそ、その、なんだ、なんかズルしてるし、みっともないことをしてる、と思うわけです。
そして、その、AIとか技術革新とかが進んでる今こそ、この「みっともない」「かっこいい」を基軸にする思考が、人の人たる存在意義になるのかと思うのです。

この盤面では、僕は明らかに、途中で汚い攻め方をしてるわけです。もちろんルール違反はしてない(PC対戦だからできない)けど「そんなことやって何が楽しいんだ」という勝ち方をしてしまったわけです。
負けるよりいい?うーむ、そうかい?そこが将棋を打つことの肝要だとは、どうしても思えない。そして生きることの肝要とも(以下略)話が広がりすぎた。
結論。

僕と将棋打ってくれる人募集してます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください