いつでも浮浪雲

いつ、この生活ができなくなるかわからない。

お金も家も家族も手放さなければならない日が来る可能性はいくらでもある。

それを覚悟するのは怖いことだけど、そもそもフリーランスになった時に腹を括ったはずじゃないか。

今のような平穏で幸せな暮らしができる様な大層な人間じゃないはずだ。身の程を知れ。

…という心持ちを常に持ちながら、今日も生きるのです。日々のお仕事を頑張るのです。何より僕は好き放題に生きさせていただいています。何にも我慢しておりません。我慢して何かをすると「こんなに頑張ってるのに」といった妄言が出てしまいます。僕は頑張ってないので「すみませんありがとうこんな僕を生きさせてくれてありがとう」という気持ちしかありません。でももうちょっと頑張ってくれ髪の毛。

その代わりに、だ。

明日、段ボールにくるまって寝る日が来るかも知れない。自宅の近くにある公園を見るに「明日はあそこで寝ることになるかも知れないな」と常に思っている。
(かと言って浮浪の生き方をする方々を非難するつもりもありません。心のどこかには、その自由な生き方を「自ら選んで」歩む方への憧憬も僅かながらあるものです)

同時に「いざとなればいつでもそれができる覚悟」というものは持ち続けたいな、と。

「家族を食べさせなきゃいけないんですよ」とへーコラするよりは、このままで許してくれる方がいる間は感謝し、許してくれなくなったら今の暮らしを手放す。社会に僕を合わせるのではなく、このままの僕を生きさせてくれる社会には感謝するし、このままの僕を否定するなら弾いていただく。

結論、このままの僕は変えない。変わらない。変えるつもりがない。良かろうと悪かろうと。公共的だろうと反社会的であろうと。野生的だろうと貴族的だろうと。

(下記、山谷崖っぷち日記/大山 史朗著 より引用)

少年期から、自分がまともな大人の世界の中で生きていけるとはどうしても思えなかった。社会に出て仕事をもち、一人の女性と家庭をつくって子供をもうけるというような生活が、私にも訪れてくるだろうとは、心の深い部分ではどうしても信じられなかった。そういう生活がしたいかどうかというよりも前に、そういう生活が自分にはどうしても現実感をもっては感じられなかった。

自分は人生に向いていないという深い確信があった。この確信を振り払うように、ある時期までは社会への(つまり会社への)過剰な適応努力を続けたこともあったわけだが、結局その努力も生理的に限界があったことがわかり、むしろホッとした気分になった。そうなのだ、、あんなところ(会社や社会)が私の生きる場所であるわけはないのだと、深く納得するところがあった。

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