たまには社会的真面目トーク

社会的義憤もどちらかと言うと薄い人間だ。ある意味諦念、薄情とも言える。僕は車も持ってないし、ビッグ何ーターがトラブルを起こしても「対岸の火事」的にしか把握していない自分がいるのだが、ちょっと立ち止まって考えてみる。

2022年だけでも

・園児送迎バスに置き去り、熱中症で死亡

・知床遊覧船の沈没、乗客乗員26名のうち20名死亡

・スシロー、おとり広告で消費者庁から措置命令

・秀岳館高、サッカー部内の暴力動画拡散、校内調査で暴力続々発覚

・日野自動車、エンジンの検査不正を公表、2003年から不正が常態化

…さらに遡れば、東芝不適切会計問題、電通社員過労自殺事件、オリンパス事件…

騙した、と言う意味では粉飾決算も車破壊も大差なく、強いていえば車破壊の方が「ダメージが目に見えてカスタマーにわかるからメディアも取り上げやすい」と言うことくらいか。

慣れてないか。

僕ら慣れすぎてないか。

そして問題が起き続けるのでどんどん忘れ続けてないか。

忘れ去られること前提で目の前をやり過ごさせてないか。

半年も経てばまた違う企業が違うやらかしをやって、みんなの目はそちらに移るのだろう。

もっと幅を広げれば、みんなryuchellのこと覚えているか?統一教会問題、他人事にしてないか。国内で暗殺事件が起こったと言うのに。ウトロ地区の放火とか小田急刺殺とか…そりゃ確かに全部真正面から受け止めてたら身体が持たない。僕らにも生活がある。

正直、様々な事件、行動、活動を消化して排泄するまでの速度が上がりすぎていると思うんだ。まあそれがフローに流れるSNS時代の特徴といえば聞こえはいいかもしれない。

「だから僕らはこう行動すればいい」みたいな簡単な道標は出さないよ。そうやって答えを出して思考を停止させること自体がよろしくないと思っている。もちろん僕は僕で自分なりの解を持って行動している。もちろん忘れていくんだけど。

考えよう。考えるんだ。

考えるとは腕組みをして思案することじゃなく、古代の学者が見つけてくれた法則を学び、歴史を知り、数学を理解し、世の中の解像度を高くし、学び続けながら「自分の学び」「幅広い世界でのフィールドワーク」を基調に思考を組み立てることだ。

それは高校時代の受験勉強とは比にならないくらいボリュームのある「学習」を伴う。そこから逃げてはいけない。

「学習」を忌諱することなく、学んで、考えよう。

強いていうなら答えはそこにしかない、と思っている。

伏見稲荷大社、通りの画像のようです

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