毎年、この日は蝶を愛でに富山に帰っている。
…と、ポエミィな書き出しだが、要は地元に戻って祭りに参加して蝶々曳山車を曳くために帰省するのである。
(2021年まで、伏木曳山祭りは5月15日でした。近年は第3土曜日に移動しました)
蝶の儚さを愛でるために帰省するのです。
蝶々は生命、愛、優しさ、女性美、復活、解放の象徴です。



何を勘違いしておるんだお主は、と思うような写真群。
当たり前だプロにカメラを向けてもらうからには、その瞬間は誰であろうとモデルなのだ。覚悟決めて被写体になり切るのだ。恥ずかしがってる方が失礼なのだ。それがたとえ勘違いであったとしても。
「え、勘違いしないで生きてるんですか?生き辛くないですか?それで不満そうな表情を世間に撒き散らす方が迷惑じゃないですか?自己認識さえ間違ってなければ勘違いしたほうがお互いハッピーじゃないですか?」
と、また誰も聞いていない中で自己肯定自己正当化自己防御を繰り広げます。こうやって一人遊びを繰り返すのです。他者がいなくても僕は寂しくありません。
明るい光が入る素敵なスタジオ。きれいな光と心地よいコミュニケーションの中、楽しい撮影をさせていただきました。
いやもう、誰がみても納得する写真の腕前。「シャッターを切る」という行為だけのはずなのに(敢えて露悪的に言ってます失礼)、こうも差が出る写真の世界。これだから僕は写真の世界に近づくことができないのだ。
ほんの些細なタイミング、角度、構図、表情への指示、光の入り方、何故にそこまでコントロールできるのか。おじちゃん映像屋10年やってるけど全然わからないよ…。
というわけで、僕の宝物がまた増えました。
川端さんありがとうございます!
photo by Junko Kawabata
※このお写真は撮って出しの即日モノですので、レタッチ等は行っておりません。美しい部分は川端さんの腕前、変なところは(もしあれば)モデルの責任です。
というわけで各種SNSプロフィールも差し替えさせて頂きました。これまでパーマ前のお写真でしたからね。
重ねて、2020年からお写真使わせていただいておりました﨡原美奈さんもありがとうございます(まだまだ使わせていただきますすみません!)。
日々、勤めて黙々と自分の人生と向き合っている。
浮き沈みがある世界の中で、それでも浮いていかないと周囲の大事な方々を幸せにできない。のんべんだらりと鷹揚に。
ふと、14年前の自分のブログ記事を発見した。
http://www.zerokai.co.jp/royalscam/?m=201206
結論から言おう。14年前から、さらに言うと大学入学の頃から、僕の50代は「なるべくしてなった」にすぎない。まさにこういう人生を歩もうとしてその通り歩んできて、こうなっている。
あとは小説を書くしかない。
(以下、一部引用)
————–
そもそも文学部なんてもの自体が社会の役に立つものではなく、どこまでも果てしなく自己内面にもぐっていくものだから、あまりロクなものではない代物なのだ。
引用させていただく。
「文学部というのはカネや安定に価値をおくことなんてまずなく、カネがなく不幸で転落して、ダメな人生を生きることに価値をおく。文学部なんて小説でも書かないかぎりそれでビジネスで成功したりカネが儲かるという栄光からほど遠いものである。
はっきりいえば挫折と転落と、凋落を糧に文学部的価値観は躍進する。文学部は職を転々として、女にだまされ、借金をつみかさね、悔恨や後悔でいっぱいの人生や精神に価値や憧れをおくものだ。いわば失敗した人生に憧憬と崇高をみるのだ。経済学部的価値観が転倒したものだといえるだろう。」
Links to 経済学部的価値観より文学部的価値観のほうが幸福かも
その中でも、僕の属していた大学の文学部は、全国の高校から選抜されたキングオブ駄目人間・スレッカラシ人間・堕落人間が集まってきていると過去から喧伝され、評判の場所だった。また実際、噂以上ににそうだった。まるでスポーツ選抜のような風体で、駄目人間選抜試験をやったのじゃないかと思うくらい。そしてその場所に受かった僕は駄目人間合格者だったという事か。ありがたい。
因みに、凋落、ヤサグレなんて言葉を使ったが、これは決して悪口ではない。むしろ、金銭や出世、女性からモテるといった社会の価値観から如何にはみ出るか。借金をこさえたり博打で失敗したり女性に捨てられたりしてどのように凋落した駄目人間になるかを競い合うような場所だった。いろんな人生の破滅、堕落、絶望をやることこそが大学生活の価値だと思っていた。少なくともこの大学においては。
そしてそれこそが、人間修養であり価値観を高めあう事だと心底信じていた。そして、そう信じている人たちが廻りに沢山居た。確実に居た。更には教授に至ってもそういう考え方だった(と思われる)。
どれだけ社会の枠から堕ちることができるか。それを心行くまで競い合い、心を震わせ、考える事ができた時間。それが僕の大学時代だった。常に小脇に抱えた書籍と共に。
先人達が、自身の大学時代を書いた小説やエッセイも多数残っているが、そのどれも自虐的に駄目な生活ぶりを描いたものばかりだった。そして高校時代にそれを読み漁り、僕は全うな社会人から踏み外した道に目覚めて憧れてしまったのだ。
だからこそ、言い訳の仕様がない。その堕落した生き方に惚れてしまって、その堕落を求めて、入学してしまったんだ。「こんなはずじゃなかった」なんて全く思わない。駄目人間になるべくしてこの場所に入り、希望通り駄目人間としてのスキルを高め、社会に非貢献する立派に価値観を間違えた堕落社会人として成長する事ができた。
僕はそうなるために、そういう未来のために、この大学に来たかったのだ。そして希望したとおりの生活をし、学ぶ事ができたのだ。それはそのほかの大学で学ぶ、いわゆる研究や学問といったことから全く外れた、ただの放蕩であったとしても。その放蕩をどの大学よりも高いレベルで行う優秀な駄目人間が集まる大学で、巷の価値観から離れても、豊穣な人生を歩むための修練を積む事ができたのだ。贅沢な事をさせてもらったと思う。
研究とか論文とか書いている学生をみると、えらいなぁ、と心底思ってしまう。僕の経験してきた大学時代というのは、万人の考える大学時代とはちょっとずれてしまっているようです。
最近、高田馬場でお世話になっている僕ですが、そのご縁にて…
明日、高田馬場経済新聞のラジオにて、なんと「彌榮スペシャル」と銘打って僕のスペシャル会を開催していただくことになりました。
当然ゲストは僕こと山本輔です。20時より21時半まで、喋り倒します。
是非みなさま上記URLにてお聞きくださいね!
というのと同時に
ディレクターの方から、「観覧者も是非お越しください」というありがたいお言葉をいただきました。高田馬場駅1分ですのでお時間ある方是非お越しください。(詳細な場所はご連絡いただいた方に直接連絡します)
ただ、人数の制約がありますため、お越しいただける方事前に私までご一報ください!何卒よろしくお願いいたします。
前回放送分)
高田馬場「なのに」おしゃれなビルからお送りする予定ですみなさま是非!
デジタルハリウッド大学に関わったものとして、あの場所には母校愛がある。
親世代から数えると、僕はなんだかんだと教育業、学校業から離れることなく、半世紀を過ごしてきた。
今となってはBYNDという欠かせない大事な学校があり、僕はその中で教鞭をとらせてもらっている。時には志、送辞を語らなければいけない立場を背負うこともある。
僕は学校に必要なものが「校歌」「校旗」「キャンパス」だと思っている。この3つがシンボルとなり、また「カリスマ」としての校長、学長が存在してこその学校だと考えている。
BYNDはありがたくも僕の思うカラーを注ぎ込ませていただいたけれども、デジタルハリウッド大学の頃、僕は大学に対し何を思想的に埋め込んできたか…。
そこで初めて、我が母校「早稲田大学」への憧憬に戻ってきてしまうのです。
大学超えて30年経って今更自分の大学に思い入れなんて学歴引きずってるだけじゃね?という意見も至極ごもっとも。僕だってそんなに日々を考えているわけじゃない。
ただ、妻も同窓、そしてなんだかんだと引っ張られる様に居も事務所も四谷〜高田馬場〜落合と「新宿集合体」近辺、いつの間にやら高田馬場創業支援センターの方と仲良くなり、高田馬場オンザコーナーで飲み浸り、高田馬場経済新聞の方と仲良くなり、早稲田大学の卒業式後の暴れっぷりをみてきた。
素晴らしい。もっとやれ。
令和の時代に大学生はどうなったかと思っていたが、まだまだ早稲田魂は残っている。早稲田精神高揚会とかガーディアンとか早稲田乞食とか今でも残ってるんだ。
改めて、早稲田のパワーを感じ取って…
1・僕はデジタルハリウッドにそのパワーを残して来れただろうか
2・BYNDにこのノリはどこまで浸透してもらえるのだろうか
高田学長の言葉も素晴らしかった。
他者を理解する「しなやかな感性」と「誰にでも居場所がある社会を実現」し「自分と異なる人々を包摂(インクルージョン)する」ことの重要性、本当にこれから大事になる事ばかりです。
改めて、この大学を出てよかった。
ここで、居場所を作れてよかった。
そして30年経ってまたこの場所に戻って肩組んで「紺碧」を歌うことになるとは思わなかった。
さらには「来年、100キロハイク出ますよね」と、30年越しに100ハイに出ることになりそうな自分に驚いている。
とりあえず冒頭にデジタルハリウッドの話題から切り込んだのは導入トークの一つだが、ざわざわしながら読んでもらいたかっただけだ。にしても、どちらもすごい大学だし、BYNDも同じ魂を包摂して頑張っていくのだよ。
未来に向けて、若い人たちを助けて、頑張っていきましょう。
要するに、僕が向き合っているのは 「自分の依存心との戦い」 であり、 「利他の精神をどこまで自分の中に落とし込めるか」 という問題だ。
けれど、僕はまだまだ成長しきれていない。
「今の心理状態を言葉にすると」
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今の自分の心理状態を端的に表すなら、こうだ。
「毟り取られている」
「ゆすられている」
「たかられている」
そう感じてしまう自分に、罪悪感を覚えている。
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「僕の本心と、もうひとつの気持ち」
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僕は、お世話になった人、大切な人、そして多くのご縁を大切にしたいと思っている。
それは間違いなく本心だ。
同時に、こんな気持ちもある。
「貸し借りではなく、巡り巡る社会の中で、利益に執着せず、他者のために尽力することが生きる道」
「自分は何もできず迷惑ばかりかけている。その罪滅ぼしとして人の役に立たなければならない」
だからこそ、僕はなるべくご祝儀を渡し、知識を無償で共有し、信頼できる人を積極的に紹介する。
その根っこにあるのは、 「そうしないと、自分にバチが当たる」 という思いだ。
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「僕の『利他』は、本当の利他なのか?」
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言ってしまえば、これは 「呪縛」 であり、 「自分が見捨てられないための依存」 であり、 「チヤホヤされることへの中毒」 でもある。
自分でも、それは理解している。
「たすく先生」というブランドがある程度定着し、「羽振りよく、自己利益よりも人のために動く」 という振る舞いが求められるようになった。
それを本心でやっているのも事実だ。
でも、現実の僕は 困窮している。
仕事がないわけではない。だが、僕の 「性格の欠落」 が弱点となり、経済的な裕福からは遠ざかった生活をしている。
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「演じるのは、しんどい」
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それでも僕は、見得を切りたい。
大人としての振る舞いを貫きたい。
そして、半ば中毒のように 「器量の大きさ」 を演じてしまう。
だが、正直言って しんどい。
「お前、稼いでるんだからここはお前が払え」
「たすく先生なら時間を作って相談に乗ってくれるはず」
「良い仕事を提供してくれるはず」
「無料でいい知恵を教えてくれるはず」
…そんな空気が漂っているのを感じる。
これを作り出してしまったのは、自分の責任だろうか?
おそらく、そうなのだろう。
僕はできる限り「よっしゃよっしゃ」と受け入れてきた。
それが 「男の器量」 だと思っていたから。
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「ケチになりたくない。でも…」
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僕は 「ケチ」 というものを極端に嫌う。
お金のことなんて二の次でいい。
利他の精神を持ち、正しい行動を続けていれば、結果は自然とついてくる。
…今でも、そう信じている。
けれど、上記のような 「お金払ってくれますよね?」
「助けてくれますよね?」
「無料でやってくれますよね?」
といった 「恩義を盾にした圧力」 を感じると、正直いい気分ではいられない。
これは 僕の「利他の心」が足りないせいなのか?
それとも、単なる 「自分の成長不足」 なのか?
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「僕の共依存」
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すがってくる人、「たすくさん、ご馳走して」 と言ってくる人、「お前、稼いでるんだから金を出せよ」 と迫る人、「時間ありますか?相談乗ってください」 と僕の時間を奪う人。
わかっている。
僕が彼らに 「共依存」 しているのだ。
「良い人、頼れる人だと思われなくなることが怖い」 のだ。
それが、転落への一本道だと分かっていても。
どんどん自分の「生きるための糧」が減っていくのがわかる。
と同時に「利他を尽くしていけば、いつかきっと報われる」と信じている。見返りを求めるのではなく、巡り巡って幸福になる、と。
信心が足りないのか、方法論が異なるのか。
誰かのために奉仕の心を持ったまま、僕は首が回らなくなるのか。どこかで激変するのか。僕は自身の信念とチキンレースを行っている。
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「僕は、どうする?」
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どう生きる?
どう進む?
…僕は、自分に問うている。
こんな姿、見せちゃいけないんだ。
書いたものを消すことは自分のポリシーに反するけど、落ち着いたらどうするかはわからない。ごめん。
すがってくる人、僕にお金を払わせようとしてくる人、ありがとう。あなたたちのおかげで、僕は今心身ともに充実しているし、成り立っている。
でも、それが当たり前になりすぎると…「物心両面の幸福」からは遠ざかる。
いかな僕でも、澱が心に溜まる。