a week in decenber

相変わらずわちゃわちゃの日々である。

今年ってまだ300日くらい残ってるよね。

●土曜日

昼間は授業

夜は手元コーディネーターの方と一緒にラジオ放送。

可愛らしいお方と楽しいトークができて僕は満足である。

その後はマッコリを飲み干してへべれけ。

●日曜日

昼間は授業

夜は卒業生の方の写真展を観に行って、久々のお話に花が咲く。

その後日本酒を飲んでへべれけ。

●月曜日

仕事は企業研修と編集作業

その後は税理士さんと打ち合わせして宿題をたんまりもらう。

「とにかくあなた自身と会社を分けてお財布を管理しなさい」と一般人にとって至極当然のことをご説明いただく。そして僕は鳥頭のためなかなか理解できぬ。その頭を埋めるために八海山にてへべれけ。

●火曜日

今月の輔塾を開催。

朝からみっちりアフターエフェクツを触りまくり盛り上がる。

個人的な盛り上がりは「エンコードの仕組みについて徹底解説」。暗号符号の解き方からハフマン符号、フーリエ級数の話まで行く準備はしていたがさすがにそこまでは行けず、ALL-IntraとLongGOPの違い辺りまで解説。

その後は懇親会にて徳利をボーリングピン並べできるくらいにへべれけ。

●水曜日

東中野の名店「ジャックと豆の木」で珈琲を燻らせた後、グランドハイアットにて今週末の上映物を試写。

クライアントの方に喜んでいただいた(と思う)お姿を拝見した後は六本木TOHOシネマズで「ウォンカとチョコレート工場のはじまり」を拝観。

ティモシーシャラメと僕は似ている(主に顔パーツの寄り方が)という案を力説して世間を納得させるためにチャミスルを飲んでへべれけ。

●木曜日

敬愛する監督と弊社事務所にて某公共案件を事務所で編集。おじさん二人でわちゃわちゃ仲良く映画論・政治論を交わしながら編集仕上げ。その後はクライアントと共にギャラ代わりの焼肉屋でごちそうになる。

その後は東中野カルト映画の聖地にてゆらゆら帝国のPVを観ながら梅原大吾と来年の我がバンド活動について熱い議論を交わす。赤ワインを飲んでへべれけ。

●金曜日

歯医者やクリーニングなど生活作業をした後に編集編集編集作業。

24本ほどある編集コンテンツを千切っては投げ千切って鼻毛のように仕上げまくる。とりあえず今日も焼肉を食べる。そして気がつくとジャストナウ朝5時である。今日はお酒飲んでない。

—–

一週間が怒涛のように過ぎていく。

この勢いを50回繰り返して一年を過ごしている。

独立して10年近く経つから、500回くらいこの生活を繰り返しているわけである。どうして生きてこれているのだろうか。

芸人人生

それこそこの映画はどうだこの機材はどうだこの写真がどうこうこの音楽は云々と、棒にも箸にもかからない話を開陳することでお駄賃を得て生きている自分も、たまにはそれを恥じらって消えてしまいたくなる時もある。

しかし同時に「喜んでいる人がいる限りは役に立ってる」んだから自分で自分のやっていることを「クソな仕事」か「素晴らしい仕事か」判断もしない。求められたらやる。誰からも求められなければそこまでだ。そもそもこの世に「クソな仕事」は断じてない。そのような汚い言葉は使わずに生きていきたい。

役に立たなくなったら全ての事務所も自宅も機材も売り飛ばそう。そこで執着して「金稼がな」とか「寄らば大樹の陰」「誰か僕に毎月の保証を」とは口が裂けても言いたくない。

役に立った分だけ、報酬を頂く。

ちと、ね。20%くらいはおまけもらったりはするけどさ。「1円でも多くもぎ取ろう」とする根性、嫌いなのよ。

それこそ、好きな時にピアノ弾いてベース弾いてレコード聴いて本読んで写真撮りに出て美術館行って旅行行って映像作って小説書いてVJやって登壇してラジオで喋って素敵な方とディナーができて、それで皆様からありがとうと言われる生活、しかも健康体。人生のバチはいつ当たるのだろうか…まあ先にバチまみれ貯金があったとも言えるからな。好きに生きさせてもらうよ。

ようやく気がつき始めたけど、僕の人生もうそんなに長くない。やらなきゃ。曳山10回は曳かなきゃ。それだけでも満足だけど、今手元にあるおもちゃを使い倒すだけで、もう人生終わりそうだよ。個展やろうかな。文学賞応募しようかな。映画祭に出展しようかな。それとも…ふらっとトロントやアムステルダムに移住しようかな。

人生…まだまだ楽しいね。やりたいことも選択肢も多過ぎて、それを支える体力と時間がある。

大きくなったら何になろうかな。

優雅に生きます。

Kid charlemagne

演奏をしてきた。演奏をしてきたのである。ドラムスクールの発表会である。僕ベースだけど。間違ってないのである。

SteelyDanである。愛する愛するSteelyDanである。

正直言おう。全く余裕なかった。「本番でなんとかする力」が出る余裕さえない16分リズムの縦合わせ。なんだこれ音源で練習するのと全く違うやないかい。

とはいえ…この曲を演奏するには色々感慨深いものがありまして。

僕が新卒の頃にお世話になった先輩にして上司、通称「多幸詩さん」と、最初に仲良くなるきっかけをくれた曲がこのkid charlemagneでした。

プロミュージシャンにして「プロフリーランス」が新卒時代の直属上司、と言う段階で色々狂っているのだがそこはまあ許していただきたい。説明すると長くなるが嘘は一切ないのだ。

この曲をきっかけに僕は先輩と親しくさせていただき、その後3年に渡り、プロミュージシャンやフリーランスとしての生き様を目の当たりにさせてもらいました。その頃の経験が今生きてます。多幸詩さんから学んだ「プロフリーランス」力が今の僕を生かしていると言っても過言ではありません。あの頃僕はフリーランスのエリート教育をされていたのです。何度も言うけど新卒の会社の中で。

その思いを乗せて演奏させていただきました。その結果が「仕事も演奏もいっぱいいっぱい」だけどな!

編集したのはインスタの尺都合上です。決して失敗したところを切り取ったわけじゃありません。まあそうなんだけど。

と言うわけで…

佐々木 大 さん

もし、多幸詩さんとご連絡取れるようでしたら、動画と共にお伝えください…「輔がkid charlemagne演奏していたよ」と。

ビール注ぎながら「お前ほんっとに下手くそだな」と笑う顔を想像して…。

Hard Days Night

知っているか。僕は制作業を営んでいるのだ。

作る仕事なのだ。

先週からの仕事

土曜:授業で喋る ラジオで喋る

日曜:授業で喋る

月曜:インタビュー収録で喋る

火曜:勉強会で喋る

火曜夜:イベントのコメンテーターで喋る

水曜:ラジオで喋る

木曜:AdobeMaxで喋る(喋ってない)

何度も言う。作る仕事である。

いつ作ってるんだっけ。

と言うくらいに人やマイクの前に立ってばかりの日々でございます。

唯一月曜はインタビュー撮影のためにカメラの後ろに立ってお話ししてたくらいかな…。

とりあえずは厳選内容だけに絞って書く。1週間が濃すぎるのだ。

火曜昼間は勉強会「たすく塾」。

相も変わらず無料のAfterEffects勉強会を開催しておる。第7回にあたる今回はひたすらカメラレイヤーをいじり倒した。参考動画は僕が遊園地で回転させられながら悲鳴を上げる動画だ。お前らも悲鳴あげろと言う暗黙の指示でカメラレイヤーを回転させてみた。しかしみんなBenditしか覚えてないんじゃなかろうか。本質はそこじゃないぞ。

そしてその夜はゆるオシャな映像発表会「ハッピープレビュー」in品川。

今回で11回を迎える動画コンテストもどんどんクオリティが上がってきたと感じています。常連作品も新規作品もそれぞれ素晴らしい作品が揃いました。

第一回からコメンテーターを務める僕も、なかなかにコメント力が求められる作品ばかりです。なんというか「これどうだ!」「どうですか!?」と語りかけてくる圧がどんどん強くなってきていると思います(それはとても良いことです)。それに対して真摯に応えていくのがコメンテーターの役回り。言葉を紡ぐのが僕の務めです。(ハピプレの集合写真って掲載してよかったんだっけ…)

木曜はAdobeMax。スペシャル映像講師の河野緑さんの付添という立場で、何もしないのにゲストブースに上がり込んでお弁当やお菓子を頬張って様々な映像業界有名人と挨拶をしておりました。何度も言うけど僕何にもしていません。

にしても刺激を受けすぎましたやっぱり作らなきゃ。作ってないと喋る内容に血が篭らない、と改めて思いました。僕ら(AdobeMax登壇者)は「作り手の言葉」を伝える仕事をしているんだ、と。僕もその仲間として頑張らねば。何度も言うけど僕喋って(略)。

そして来週は今度授業撮影撮影撮影授業授業ベース演奏とまたクレイジーな日々。

だれか止めてくれ。いや止めてくれるな。

そしてどんどん溜まる映像素材をどうすればいいのだ。

将棋を打つよ

勝てば官軍 という言葉がどうにも苦手でして。

将棋が好きで、時々遊んだりするのですが、まあ下手の横好きというか、まあ、その、あまり賢くはないのです。

そんな中で、なんとか泥沼勝負を制することができるときもあるのですが、改めてその最終棋譜を見たら、ご覧の通り「うわ私の年収低すぎ」じゃなかった「うわ私の棋譜汚すぎ」というあまりにひどい棋譜が出来上がっていたりするわけです。

で、そこで「勝てば官軍」思考について。

勝ったから棋譜が汚くてもいいじゃないか、という発想がどうにも受け入れられないのですよ。この勝負、勝ったかもしれないけど、僕そんなに楽しくないのですよね。たしかに勝つためにいろいろ考えて結果を出してはみたものの、見る方が見たら分かる通り「お前途中で考えること放棄して物量投入しただろうええお前は資本主義の犬かトランプノミクスか男の風上にも置けぬわこのポピュリストめ」という声がまことしやかに聞こえてくるのです。

楽しんでやってることなのだから、勝った負けたよりも、よりその行為や経過を楽しんで、美しくしないとダメじゃないか、と。

勝ち負けで家計が決まり、生活かけてる棋士ですら棋譜の美しさを追求するのに、お前が楽しまなくてどうするんだ、と。

勝つことに何の意味があるんだ、と。考え抜いて、考え抜いた結果が綺麗な盤面に現れるのが面白いんじゃないか、そして面白がるために将棋やってるんじゃないかと。

勝つことで得られるドーパミン放出だけ欲しいのなら、パチンコや麻薬でいいわけです。

ゆえに、汚くても勝てばいいんだ、とはなり得ないのです。たとえそこに生活がかかってたとしても。

そんなことでは生きていけない?生活できない?いやもちろん負けてらんないよ。もちろん、勝つのだよ。だけど、汚く勝って満足してるよりも、美しく勝てる道を探したほうが、よっぽど価値があることだとも思うわけです。

いや、言い方が違うな。本当に「なりふり構わない生き方」ってのは、意外と美しいものだったりすると思うのです。

それこそ、信条かけて、精一杯頭を使ってリスクを背負った行動が、汚いわけがないのです。

それが汚ければ、それこそ、その、なんだ、なんかズルしてるし、みっともないことをしてる、と思うわけです。

そして、その、AIとか技術革新とかが進んでる今こそ、この「みっともない」「かっこいい」を基軸にする思考が、人の人たる存在意義になるのかと思うのです。

この盤面では、僕は明らかに、途中で汚い攻め方をしてるわけです。もちろんルール違反はしてない(PC対戦だからできない)けど「そんなことやって何が楽しいんだ」という勝ち方をしてしまったわけです。

負けるよりいい?うーむ、そうかい?そこが将棋を打つことの肝要だとは、どうしても思えない。そして生きることの肝要とも(以下略)話が広がりすぎた。

結論。

僕と将棋打ってくれる人募集してます。

20231101

先に言っておく。来週の月曜、僕は誕生日だ。
大丈夫だOK,Yes。誕生日プレゼントは前後半年間受け付けている。

50歳になる。
半世紀を生きた。

二十歳の時は三十まで生きていたくないと思い、
三十になると太宰治や坂口安吾を超えて堕落していてはいけないと思い、
四十を超えると「まあいいか」と思うようになり
五十になって「生きてるってハッピー!」となった。まだ五十じゃないけど。


ここ10年間。
特に40代は苛烈だった。そして豊潤だった。

一般には10代20代が幸せな時期とは言うが、青春時代とは比較にならないほど、人生を謳歌させてもらった。
あ、でも今思い出すと10代20代も幸せだったけどね。それでも40代は百花繚乱、華燭の人生でした。

人から求められ、自分の力で成果を出せるよう創意工夫し、自らの責任で行動することの素晴らしさを知った。発言の重たさも知った。慕ってくださる方も数多く、千人単位で増えた。いや本当に。

曳山も曳いた。会社も作った。やりたいことだけをしてなお、人の役に立つこともできた実感がある。自分の言いたいことを言っても「まあたすく先生だからな」と受け入れて?くれる世界も手に入れた。収入は40代だけでそれまでの10倍を超えた。生涯年収も狂ったことになった。それは稼いだというより30代までの収入があまりにも雀の略。

正直、自分の人生にはもう満足した。

強いて言えば、その分を若い方々のために尽くしたいところだが…僕のやってきたことなんて若い人たちの役に立つことはあまり無いとも思ってる。もちろん学びにきてくれればいくらでも無償で伝えるけどさ。ただ「どれわしが教えてやろう」という老害にはなりたくない。自分の存在や知見なんて塵芥のように消えいくのが本道だ。

ただ同時に、50代はどうなるか。

もちろん、40代と同じようにこのまま幸せに過ごしていきたいというのは本音だ。

これから僕は、嫌でも人生が「下り坂」に入る。
40代から下り坂という人もいるが、たまたま僕は40代でドッキリにあったようにロケットアップをさせてもらった。
その分、下り坂も急勾配になる可能性を持っている。

僕は「執着」を減らさなければいけない、と考えている。

これから僕は、さまざまなものを失っていく。必ずだ。

自分の健康、家族の健康、年収、守ってくれていた先輩方、求められる仕事、愛すべき人々、自分が持っていた地位(そんなに無いけど)…

極論、僕が愛して、かつ未来永劫続くと信じている「祭事」さえも、いつ何が起きるかわからない。僕が命尽きる時、僕の身の回りには何も残っていない、愛した人たちは誰も居ない。大切な青山の学校もない、誰も僕の葬式に来ない可能性だって残っている。

そこに対して「嫌だー!もっとこのままでいたいんだー!」なんて言っても詮ないことで。さらに言うとみっともないことで。かっこよく無いことで。

もちろん「人生の目標」としてさらに高みを目指すのも悪くは無いと思ってる。

でもそれ以上に「失っていくものに対して鷹揚に構え、自然に気持ちよく手放していく」器量を大事にして生きていきたい。

これから僕は、どう足掻いても人生の後半戦。
人生の先輩方を守りながら、同窓の徒と慈しみあいながら、そして軽やかに若い方々を応援しながら、笑って失っていこう。

生きていこう。
失いながら生きていく。
それでも笑って生きていく。

お誕生日 半世紀

自慢だ。自慢である。

そもそもSNSはみんながお互いを自慢するツールなのでこの使い方は間違っていないのである。

お誕生日を迎えた。何度でもいうが誕生日のお祝いはこのあと半年間受け付けている。

今年は50周年感謝祭特別キャンペーンとして一年受け付けることにする。

50にもなってお祝いされるというのは気恥ずかしいものだが、様々なところで様々お祝いいただいた。

11/5は神田のイベントにて店長からの計らいにて。その翌日は卒業生の皆様にて。その次は…と書き連ねてもキリが無い。動画に観客が映っていないのはたまたまである。自分独りで撮影して効果音をつけて無理やり編集したものではない。ないのだからな。

たくさんのギフトを頂戴いたしました。こちらはちゃんと開封動画として一つ一つ吟味してアップさせていただこうと考えております。

あれだな。LINEギフトって便利だな。今後1ヶ月くらいスタバのコーヒー飲み放題にさせていただきました。

僕はよく、大事にしなければならないものの順番を間違える。

大事な方々に順番をつけるなんて不躾だ、という思いもあるが、体力や時間に限度がある限り、そこにはどうしても優先順位が存在する。

ただそれでも僕は「できる限り体力をつけたらみんな大事にできるだろう」という無謀な生き方を続けてきた。そしてまだ、この生き方を続けるつもりだ。

その結果が、この状態なら悪くない。

自分の我儘な立ち位置だけで言えば、ね。

もっともっと、周囲の方々に感謝して「ちゃんと生きなければ」という気持ちは心の奥底に持っている。

同時に「この僕がこの僕でいる限りにおいて愛されている状況」というものも薄らぼんやりとは理解している。私以外私じゃないの。

この我儘放題の僕ですみません、と思うと同時に、この生き方が望まれているみたいだ、という肌感覚も持っている。ただ、そこに甘んじてはいけない。恥を晒して人様に迷惑をかけている自覚を持って、その上で「迷惑をかけないように緊張して生きるのではなく」「迷惑かけてはごめんなさいを続けて皆様からかけていただく迷惑(と思っていないが)を許容して」生きていこうと改めて思うわけであります。

結論。僕は何も変わらない。

誰に何を言われても変わらない。

変わらないままに、これからもずっと生きていきます。迷惑かけすぎて誰も周囲からいなくなるまで。

今のままで良いよって言ってくださる方、ありがとうね。皆様のために、僕は身を粉にして遊び続けていくからね。僕の役割は「常に上機嫌で居ること」です。

こんな放蕩50代を、どうぞよろしくお願いいたします。

僕は僕の人生が大好き

お盆です。皆様いかがお過ごしでしょうか。

僕は先週日曜から5日間、お仕事をしない日々を過ごしました。

いろいろ「人生の役割」があり、法事、高校の同窓会、その他諸々と「やるべきこと」「やりたいこと」を行ってまいりました。

5日間。こんなに仕事(ここでの仕事はお金を頂く類のものを言う)から離れてた時期は無かったのではないだろうか。

これだけ仕事三昧してる自分が言うのも口はばったいが「仕事なんて人生の一欠片に過ぎない」と思っている。

それはそれ。仕事するために生きてるわけじゃない。

もっともっと大事なことがたくさんある。

ただ、自分が今置かれた立場、健康状態、これまでかけてきた迷惑などを考えたら「長い人生の中で今はちょっと人様の役に立つことに比重を置いておくほうがトータルバランスいいだろう」と思っているくらいのもので。それゆえに仕事三昧してるだけなのでございます。

またここにどんどんとしたためていきたいと思いますが、楽しい時間を過ごしてきました。明日から普段通りの活動に戻りますが、そちらもそちらで「ありがとう」と言ってお駄賃いただける活動にわくわくしてます。いや本当に。

・法事 親戚一同みんな元気そうでよかった

・高校同窓会 30年ぶりに会うみんなの顔が元気そうでよかった

・旧ユニーの通りにある「大人な飲み屋さん」で同窓会二次会。みんな大人になってた。(というか孫がいる同級生もいた)

・ソウルフードくるまやラーメン食べまくった

・なんとなく一人ドライブで白川郷まで行ってきた

・あてどもなく車に乗って金沢競馬場に行ってみた

・カメラを使う仕事に就いてから初めてお馬さんを写真に撮ってみた

・唐突に思い立って新湊博物館に行ってきた

・僕のライフワーク「富山県曳山研究」において外すことのできない

 「安永の曳山騒動」文献をゲットしてきた。

・万葉歴史博物館で大伴家持と万葉集について研究してきた

・万葉歴史博物館のプロジェクションマップング堪能してきた。Sさんありがとう。

・雨晴海岸の夕日を見てきた

・伏木の海が見える露天風呂でゆっくりしてきた

・一日中東横インに籠ってVOD見まくった。

・とりあえずバッドマンとガンパウダーミルクシェイクは傑作

・勢い余って近くのイオンで映画「バービー」も見てきた

・自宅戻っていきなりオーソンウェルズの「第三の男」を見た

・寿司ではなく「氷見の刺身」を食べてきた

・もちろん寿司も食べまくった

・伏木図書館で堀田善衛と正和勝之助について調べまくってきた

・十七軒町曳山を眺めて半日過ごした

・もちろん山倉と伏木神社には挨拶した

・法事に戻って)お爺ちゃんお婆ちゃんに挨拶できて本当に良かった

ほら、僕からPremiereとAfterEffectsと映像仕事を取り上げて一人にすると明確に多動性障害が発動する。なんでもやりたくて仕方ないお年頃なのよ。

やっぱりね、改めて思いました。

僕は僕の人生が大好きなのよ。

会社とは大いに戦うべきだ

会社とは大いに戦うべきだ。

彼らは決して家族ではない。自分を守る存在ではない。

何かあれば簡単に切り捨てる。

僕は実体験をもとに、こういう意見、仕事観を持っているが、必ず「それはお前に問題があるんじゃないか?」という言葉が投げつけられる。

まあいいだろう。それでも「義」と「優雅な人生」と「神々や仲間からの信義」「社会的信頼と経済力」は僕の側にある。

楽しく生きて優雅に暮らし、そして最後に逆襲する。

それで全てを失っても楽しいじゃないか。天国を経験させてもらってるのだから、地獄へもろとも引き摺り込むのも映画のエンディングみたいで面白い。自分に酔いしれよう。

うちのかみさんが「もういいじゃないの」「前職たちに関わらないでいいじゃない」というのは受け入れているのだが、

その前職たちから「そ、そうだ、もう俺たちに関わるな!」「そっとしておこう」「もう終わったことじゃないか」「今幸せなんだったらそれでいいじゃないですか」「ほ、ほほほ法的にはわわ我々は何もわわ悪いことはしてななないというはは判例が」という意見や態度が見え隠れするから

「絶対に復讐してやる」「こっちが損してでも身持ち崩させてやる」という感情が10年以上続いてしまうわけです。

ただ一度、ちゃんと人として対等に接してくれて、当時の態度、敬意なき対応に対して、謝罪してくれればそれでいいだけなのに。

たまには社会的真面目トーク

社会的義憤もどちらかと言うと薄い人間だ。ある意味諦念、薄情とも言える。僕は車も持ってないし、ビッグ何ーターがトラブルを起こしても「対岸の火事」的にしか把握していない自分がいるのだが、ちょっと立ち止まって考えてみる。

2022年だけでも

・園児送迎バスに置き去り、熱中症で死亡

・知床遊覧船の沈没、乗客乗員26名のうち20名死亡

・スシロー、おとり広告で消費者庁から措置命令

・秀岳館高、サッカー部内の暴力動画拡散、校内調査で暴力続々発覚

・日野自動車、エンジンの検査不正を公表、2003年から不正が常態化

…さらに遡れば、東芝不適切会計問題、電通社員過労自殺事件、オリンパス事件…

騙した、と言う意味では粉飾決算も車破壊も大差なく、強いていえば車破壊の方が「ダメージが目に見えてカスタマーにわかるからメディアも取り上げやすい」と言うことくらいか。

慣れてないか。

僕ら慣れすぎてないか。

そして問題が起き続けるのでどんどん忘れ続けてないか。

忘れ去られること前提で目の前をやり過ごさせてないか。

半年も経てばまた違う企業が違うやらかしをやって、みんなの目はそちらに移るのだろう。

もっと幅を広げれば、みんなryuchellのこと覚えているか?統一教会問題、他人事にしてないか。国内で暗殺事件が起こったと言うのに。ウトロ地区の放火とか小田急刺殺とか…そりゃ確かに全部真正面から受け止めてたら身体が持たない。僕らにも生活がある。

正直、様々な事件、行動、活動を消化して排泄するまでの速度が上がりすぎていると思うんだ。まあそれがフローに流れるSNS時代の特徴といえば聞こえはいいかもしれない。

「だから僕らはこう行動すればいい」みたいな簡単な道標は出さないよ。そうやって答えを出して思考を停止させること自体がよろしくないと思っている。もちろん僕は僕で自分なりの解を持って行動している。もちろん忘れていくんだけど。

考えよう。考えるんだ。

考えるとは腕組みをして思案することじゃなく、古代の学者が見つけてくれた法則を学び、歴史を知り、数学を理解し、世の中の解像度を高くし、学び続けながら「自分の学び」「幅広い世界でのフィールドワーク」を基調に思考を組み立てることだ。

それは高校時代の受験勉強とは比にならないくらいボリュームのある「学習」を伴う。そこから逃げてはいけない。

「学習」を忌諱することなく、学んで、考えよう。

強いていうなら答えはそこにしかない、と思っている。

伏見稲荷大社、通りの画像のようです